たまには他所様の記事を取っ掛かりにしてみましょう。
アメリカの民主主義はどこにいったの?
◆アメリカ人の大半は「内戦勃発は近い」と予感している、8割近くが「暴力OK」と答える世紀末状態 - GIGAZINE
(GIGAZINEが引用しているSCIENCEの元データであるプレプリント(未査読))
The analytic sample included 8,620 respondents;... Among 6,768 respondents who considered violence to be at least sometimes justified to achieve 1 or more specific political objectives,
分析対象は8,620人で、(中略) 1つ以上の特定の政治的目的を達成するために、暴力が少なくとも時には正当化されると考えた6,768人の回答者のうち、
この辺りの文章とか正直理解できないのですけど。
分析はオンラインパネルで行っていますので確率標本ですし、そもそも未査読のプレプリントなのでどこまで信用していいデータかは不明ですが、政治目的を達成するために暴力OKってそれはもう民主主義ではないですね。
8620人中6768人がそう答えている時点でもはや何がなんだか。少なくとも現代の民主主義ではないです、はい。中世とか古代とかそのあたりです。いや、下手をしたら古代ギリシアのほうが暴力を排除できていた可能性が・・・
本邦でも「民主主義が終わる!」と懸念されてはいますが、さすがはアメリカ、日本の10年先を行く進んだ国です。アメリカでは先に民主主義が終わってるのかもしれません。
GIGAZINEが元ネタにしているSCIENCEの記事も読んでみましたが、「陰謀論に染まった田舎者のコンサバ共が悪い、あいつらを締め上げなきゃ(意訳)」という論調でした。いや、その、エリートリベラルのそういう言い方が反感を買って分断を深くして内戦の危機を煽る一因になっているのだと思いますが・・・というか約80%の人が暴力OKと答えている時点でコンサバもリベラルも混ざってますよね、これ。
民主主義ってそもそもなんでしょうね?
まあ皮肉めいた文章はこの辺りにしましょう。「民主主義は最低の政治制度だ、それ以外の全てを除けばだがな!」というチャーチルみたいな気持ちにはなっていますけど。
民主主義には様々な形態や理論がありますが、組織の構成員が主権者であることが全ての民主主義の共通事項であり、形態や理論はどうやってそれぞれの権利を調整して意思決定を行うかの違いです。しかしいずれのやり方においても話し合いによる調整が根幹です。暴力を持ち出してしまっては明確に他者の権利を侵害することになりますので、それでは皆が主権者であるという民主主義の名目が成り立ちません。
その点からして、多数派の横暴に陥らないためにも民主主義=多数決ではないという言説は真であると思うわけです。なんでもかんでも多数決を取れば民主的かと言えば、そんなことをしては少数派の権利が侵害されるのみとなってしまいます。よって多数決こそが民主主義だというのは明確に誤りだと考えます。
多数決の存在意義
それはそれとして、多数決は民主主義において必要な道具であることも疑いようがありません。ありとあらゆる事項について全員が納得するまで話し合うことは現実的に不可能ですし、全会一致の幻想や斉一性の原理が発生するリスクを考えれば満場一致を目指すほうが危険とも言えます。そもそもそれぞれが権利を持つのですから利害が対立することなんて当たり前のことであり、満場一致で決まる物事のほうが珍しいでしょう。
しかしそれでも組織としては有限の時間のうちに意思決定を下さなければなりません。「この議題について喧々諤々の議論を10年続けた結果、何も決められませんでしたので、何もしません」なんてことは許されないわけで、そのためにはどこかで区切りを付けて結論を出す必要があります。その区切りの付け方の1つが多数決というわけです。
つまり、民主主義=多数決は誤りですが、「だから多数決で決めるのは間違っている」とまで先鋭化するのもまた誤りだと考えます。多数決は民主的な組織における意思決定の道具の1つです。1つでしかありませんが、1つではあるのです。=(イコール)で結ぶから分かり難い話なのであって、A∋B(要素として含む)的な意味合いです。
結言
前述したように多数決は少数の意見を圧殺しかねない方法です。しかし無限の時間を保有していない私たちは議論の区切りを付けなければならないこともまた事実です。
よって、民主主義とは多数決で決めることではないという言説は正しいのですが、それを拡大して多数決を全て否定するのは筋が悪いかと考えます。それよりも個別の議題が多数決を用いるべきTPOに適合しているかを議論したほうが建設的です。
なんにせよ、多数決は「物理的ではない」というだけで数の暴力だということには変わりないというのもまた一種の正論であって、最終手段とまでは言わないにしても必ずしも常用すべき手法ではないとは思います。