誰かが支払わなければならないが、平等ではない。
民主主義と話し合い
民主主義を定義するための完全なコンセンサスは存在しないものの、そのうちの一つとして市民が平等な発言権を持つことが民主主義の根底的な特徴とされています。
言い換えれば、民主主義とは話し合いを重視する政治形態です。
何らかの力によって誰かの権利が抑制されることは民主主義にとって不正義であり、誰もが平等に発言権を持ち、個々の権利を公平に主張し合い、その権利を公正に調整する「話し合い」の場が不可欠です。
よって民主主義では「話し合いが大切だ」と声を上げるだけでなく、「どうすれば話し合いの場を成立させられるか」をちゃんと考える必要があります。ただ「話し合いが大切だ」と訴えるだけでは民主主義に不可欠な公平な主張も公正な調整も望めません。エントロピーに関する法則を持ち出すまでもなく、物事は放っておけば無秩序へと突き進んでいきます。話し合いを成立させて権利を均すためには人間の手による秩序が必要です。そしてその秩序と場を構築するのは参加者の仕事です。
話し合いの場を設けるためのコスト
話し合いとは話し”合い”の言葉が意味するように双方が話すことが前提であり、本質的に双方向性です。
よって話し合いの場を作ることも本来は双務的だと言えます。どちらかが拒めば話し合いは成立しませんし、「対立相手・敵対勢力が話し合いを拒んでいるんだ」とどれだけ周囲へアピールしても話し合いの場を構築することには繋がりません。
しかしながらそのように平等な双務となることは実際には稀です。大抵はどちらかが話し合いを拒む姿勢を取ります。
それでも話し合いの場を成立させるためには、誰かが場を構築するコストを支払わなければなりません。
つまるところ、厳しい話ではありますが、話し合いはそれを成立させたいと思う側にコストが集中します。場を整えて相手を話し合いの場へ引き摺り出すための支出は話し合いを求める側が払わなければなりません。
場を設けることへの支出が平等であることは話し合いの要件に当てはまらず、むしろ支出が不平等であっても「権利の主張は公平に扱う」ことが民主主義では求められる以上、話し合いを希望する側が無私の精神で負担しなければならないでしょう。
民主主義にとって善いことをしているのに損をする、そんなとても嫌な現実ではあります。
それでも、曲がりなりにも民主主義を尊び維持することを願うのであれば、その負担を請け負わなければなりません。
結言
当ブログでも度々言及してきたように、民主主義を維持すること、そして話し合いを成立させることはとても難しいことです。現実は民主主義的であろうとする側に負担を強います。
それでもその支払いを拒まないこと、決して受け入れられないような異なる意見にも耳を傾けて話し合いの場を設けること、それこそが民主主義に必要なことです。