忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

まずはおっさんがスカートを履くのはどうだろう?

 ちょっとした思考実験的思索。ちょっと極論ぎみ。

 

ジェンダーレス制服

 ここ数年ほど学生のジェンダーレス制服についての話題を時々見かけるようになりました。「スカートとズボン、どちらも自由に選んでいいですよ」というようなやつです。

 制服に関しては様々な立場の意見があり、絶対的な正解は無いものだと思います。特にすれ違いがちなものとしては、金銭的な格差の観点から「画一的制服が望ましい」とする意見と、多様性の観点から「多種多様な制服や私服を許容すべき」という意見です。どちらの言い分もそれぞれの面から見て正しく、ある程度の自由化とそれに伴う補助制度の確立など、現実的な落としどころを見つける必要があるでしょう。

 本日はそういったジェンダーレス制服の是非自体が主題ではなく、その先を少し考えてみます。主題は「ジェンダーレス制服で育った子どもたちが社会に出た時どうなるか」です。全体の話というよりは、ジェンダーレス制服の環境下でスカートを履いて育った男子やズボンを履いて育った女子が社会に出た時を主軸で考えます。

 

最初から不自由であるよりも自由を失った時のほうが辛い

 当事者ではないので分からないことは多々ありますが、ジェンダーレス制服で育ってきた子どもたちが社会に出ると正直なところ結構しんどいと思うのです。学校ではスカートやズボンを自由に選ぶことができていたのに、社会に出たら服装規定やドレスコードが違うわけで、今まで許されていたことが急に許されなくなるというのは大きなストレスになるでしょう。

 特に男のスカートは社会的な認知を得られているとは言えず、男はズボンという意識が根強いかと思います。そのため環境によっては異性装と扱われてしまうこともあるでしょう。将来的にジェンダーレス制服が主流になる世の中になるにしても、あまり性急な改革はそういった若者たちにしわ寄せが行きかねないため、慎重に進めるべきだと考えます。

 学校には「社会の構成員として必要な知識や習慣を学生に教育する」という機能が、それが良いか悪いかは別に、実態としてあります。学校では許されていたこと、学校で学んできたことが社会に出て通用しなくなるというズレは心理的な面から望ましいものではありません。ただでさえ学生から社会人になる時の環境変化への適応は大変なものであり、適応障害が社会問題になりつつある昨今においてさらに若者への負担を増やす方向への改革は諸手を挙げて推奨していいものか悩むところです。

 

ボトムアップじゃなくてトップダウンのほうが良いと思う

 つまるところ、まず変えるべきは「学校」側からではなく「社会」側からだと思うわけです。社会が先に変わればそれに合わせて学校側を変えることなんて容易です。学校の実態が「社会の構成員として必要な知識や習慣を学生に教育する」ことである以上、それこそまずは「社会」側を変えて、それに合わせて「学校」側で教えるべきではないでしょうか。

 厳しい言い方をすれば、子どもたちに理想を押し付けるよりも先に、大人たちが責任を持って自分たちの社会を変えることを優先すべきではないだろうかと思います。「理想的な世の中というのはこういうものだよ」と学校では教えて、いざ社会に放り出した際に「現実はこんなもんさ」と突き付けるようなやり口は、なんというか、悪意は無いのかもしれませんが、無責任で外道な気がしてしまうわけです。

 何より、本当にジェンダーレスを進めたいのであれば学生の服装だけでなく社会全体でそうなるべきだという考えでなければいけないでしょう。「若いうちだけは自由ですよ」なんていうのは社会的なムーブメントとして片手落ちと言わざるを得ません。やはり社会に出た後もそのような服装をすることが許容されるべきであり、であればまずは社会側から変えることに力を入れることがムーブメントを動かす人の責任として必要だと思います。

 

まずは大人が率先垂範すべき

 今回の題としたジェンダーレス制服に限らず、学校教育で理想を詰め込むことが適応障害を招く一因かもしれないと考えています。たとえ少し厳しくとも現実をちゃんと教えてあげることが優しさであり、現実に負けない強さを育てることが教育ではないでしょうか。

 だからこそ、本当にジェンダーレスな服装をムーブメントとして進めたいのであれば、若者に理想を押し付けるのではなくまずはおっさんがスカートを履くことから始めるべきです。いえ、まあ、極論を言っているのは自覚していますが、若者にやらせて大人が率先垂範しないのでは、幼い表現ではありますがズルいと思われても仕方がないと、そう思うわけです。