忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

他人が馬鹿に見えた時、考えるべきこと

 稀に、時々、頻繁に、常に。頻度は人によると思いますが、他人が馬鹿に見える時が大抵の人にはあると思います。

 当人が物凄く賢い天才であれば常に他者が愚かに見えるのもやむを得ないでしょうが、大抵の人はそこまで隔絶した賢さを持ち合わせてはいません。それでも他人が馬鹿に見える時、それは少し気を付けたほうがいいと脳が出す信号だと考えています。

 ああ、私のように馬鹿な人は別の話ですよ。それは馬鹿に見えるではなく馬鹿なので。そうではなく、ふと他人が馬鹿に見える時の話をします。

 

なぜ他人が馬鹿に見える?

 他人が馬鹿に見えるのは自身よりも『考えが浅い』考えの程度が低い』知らないことが多い』といったようなことが起きたと自身が認識した場合に発生します。

 実際に相手が頭の中で何を考えているか、私たちには分かりません。言葉や文章は思考の欠片に過ぎず、もしかしたら少しズルをするために程度を隠しているのかもしれませんし、駆け引きとして知らない振りをしている可能性だってあります。相手の言葉や文章は現実に出力された事実かもしれませんが、その情報から相手が本当は何を考えているかは想像するしかないわけです。

 つまり、他人が馬鹿に見えることと相手が本当に馬鹿であるかは関係がなく、他人が馬鹿に見えるのは私たちの想像力が衰えている場合に起きる現象です。

 

流動性知能:環境依存性

 過去にも紹介したことがありますが、イギリスの心理学者レイモンド・キャッテルは知能を『流動性知能』と『結晶性知能』の二つに分類しています。流動性知能は推論力や記憶力、計算力のような問題解決能力・学力を意味しています。結晶性知能は専門知識や習慣、趣味によって培ったスキルのように経験が土台となる専門性が高いものを意味します。

 想像力はまさしく流動性知能に該当するものであり、相手が何をどれだけ考えているかという想像をどれだけ張り巡らせることが出来るかどうかはある種の知能と言えるわけです。

 そして忘れてはいけないこととして、知能とは不変的絶対のものではありません。流動性知能は結晶性知能とは違い蓄積性を持つものではなく、年齢や体調、気分や疲労によって上下します。腹が立っている時に想像力を働かせるのは難しいものですし、頭が痛い時に計算力が向上する人はそうそういません。頭の良い人が常に頭が良いわけではなく、逆もまた真です。

 つまり想像力というものは何らかの要因によって一時的にせよ恒久的にせよ衰えます。そのような事象が起きている場合、(もしかしたらこういう考えをしているのかも)、(もしかしたらこういう意図を持っているのかも)、というような想像が出来なくなってしまうため、相手が思慮の浅い馬鹿に見えてしまうわけです。

 しかし実際に思慮が浅くなっているのは自分のほうかもしれません。とても嫌な悪い言い方をしますが、『相手が馬鹿に見えるということは自分が馬鹿になっている』と疑ったほうが良いと思います。

 

結晶性知能:どの側面を見るか

 さらに言えば結晶性知能は専門性が高いものであり、ある側面では突出していても他の面では大変に劣っている場合があります。極めて優れた学者や研究者が日常的なことはさっぱり知らない、というような事例は枚挙に暇が無いでしょう。

 そのため、ある一面や発言を見てその人の知性全体を判断するのはあまり適切ではありません。ある分野において自身よりも『考えが浅い』考えの程度が低い』知らないことが多い』と思ったとしても、別の分野ではそうではないかもしれないのですから。

 人それぞれ得意なことや専門は異なります。誰だって出来ないことや知らないことはあるものです。相手の苦手なところを見て「あいつはこんなことも知らない馬鹿だ」と互いにあげつらい合うような関係性はあまり健全ではないでしょう。それよりも「あいつはこれを知らないけど、あれについてはとても詳しい」と良い面を見たほうが良好な環境を築けるのではないかと愚考するばかりです。

 

まあ、でも実際馬鹿はいるよね

 この記事を書いた人とかね。