社会の分断が深刻になっている、という言説がここ数年多いような気がします。気がするだけかもしれませんが、少し分断について考えてみましょう。
社会の分断自体は回避不可能
分断とは「まとまりのものをさらに分けて区分すること、分かれ分かれに断ち切ること」という意味です。
社会の分断ということはつまり、思想やイデオロギー、価値観や境遇の差異によって社会の構成員が区分けされているということです。
・・・思うに、それは普通のことではないでしょうか?人はそれぞれ違う人間であり、違う考えを持って違う生活をしているのは自由主義の社会として当然です。差異は当たり前に存在するのです。
差異による分断が無い社会というものがもし存在するのであれば、それは全員が同じ考えを持って同じ生活をしているということです。分断があってはいけないのならば、見た目も同じ、収入も同じ、ありとあらゆるものが同じでなければいけません。住む場所での差があってもいけないので、都会と田舎での差なんてもっての外です。
もちろん物理的にそんな社会は不可能です。その社会が目指す結末は全体主義社会ですが、全体主義社会ですら分断をゼロにすることはできません。
差異があっても社会は団結できる
分断はあって当然のことであり無くすことは不可能です。だからこそ殊更に分断を強調する必要なんかありません。私たちの構成する社会は一枚岩のものではないですが、違う者同士が何らかの目的や意思、力によって結合していればそれは正しく社会と言えます。構成員には差異があってもいいのです。
理系的な表現をすれば、社会構造は別にO2のような単原子分子である必要はありません。H2OやNH3のような多原子分子でも成り立ちますし、むしろそれこそが多様性と言えるでしょう。ちょっと分かり難い例えな気はしますが。
私たちは差異による分断を広げるのではなく、その隙間の存在を認めつつ協力や妥協を持って互いに助け合うことこそを進めるべきです。
マスメディアや識者が分断に関する言説を展開する場合、多くは「分断があってはいけない」「分断を解消せねば」ということを基調にしています。これはあまり適切ではない場合がありますので注意が必要です。
「分断があってはいけない」ことを基調とすると、畢竟「分断は悪」という論に落ち込んでしまいます。分断を悪と捉えてしまうと、その両側にいる人々は反対側の人を「分断を作る原因となっている悪」と考えるようになります。そうなっては互いに相手を悪と認定し合い、その悪を排除するために抗争が始まり、分断が埋まるどころか深さと広さを増すばかりになってしまいます。典型的なキャンセルカルチャーや党派性の問題が発生してしまうわけです。
分断を解消したいというのは、差別を無くして社会の結束力を高めようという善心からの行動だと思います。しかし何度も述べているように分断は無数にあり無くすことはできません。私たちがすべきは分断を解消することではなく、分断があっても向こう岸に手を伸ばすことです。差異を認め合い、許し合い、理解し合わなければ社会の結合力を高めるどころか社会を崩壊させかねません。分断を埋めようとする行為はその逆、差異を認めず、許しを持たず、理解をしないという態度であることに注意しなければいけません。