忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

予防原則を錦の御旗にしてはいけない

  過去に予防原則について取り上げていますが、その続きです。

 過去の記事でも述べた通り予防原則は原則と銘打ってはいるものの、厳密な定義や適用条件が決まっていません。

 現在は将来的な危険・リスクに対して予防的な措置を取るべきと拡大解釈されることが多くなり、かなり幅広い分野で見かける概念となりました。

予防原則の運用は難しい 

 この予防原則、実際のところどこまで適用していいものでしょうか。

 化学物質については人体や環境への僅かなリスクでも多くの人が合意して予防的な規制・禁止に動きます。ここ最近であれば"フタル酸エステル類"などが該当します。これは塩ビなどを柔らかくするための可塑剤として主に使われていました。しかし内分泌かく乱物質の疑い有りということで、具体的な毒性や環境影響はほとんど報告されていませんが世界中で規制が進んでいます。乳幼児向けの塩ビ玩具にはすでに完全撤廃されており、現在は電子・電気部品でもほとんど使用されなくなりました。疑い有りということで実際に危険とは言い切れないのですが、代替手段がちゃんと別にあるため切替は比較的容易でした。

 農薬や殺虫剤においても同様にリスクがあればそれを回避する傾向が強くあります。化学物質と同様、直接的な被害を想起しやすいからでしょう。

 少し難しくなるのが医療分野です。薬は用法容量を守らなければ毒になりますし、副作用や副反応を完全に避けることは不可能です。リスクがあるからと全て予防的に禁止してしまっては使える薬が無くなってしまいます。よって人々は様々な情報やデータに惑わされながら、社会的にどこまで許容できるかを模索せざるを得ません。最近であればワクチンが分かりやすいですね。ワクチンの効果や副反応のニュースが怒涛の如く押し寄せてきていたため初期段階では接種について世論が割れていましたが、現在では許容可能なリスクということで接種が進んでいます。

 さらに広い分野として軍事も事例に挙げられます。2003年、アメリカのブッシュ大統領は「もしわれわれが脅威が完全に具体化するのを待つならば、長く待ち過ぎてしまったことになるだろう」と言い、アメリカの将来的なリスクを避けるという名目でイラクへ侵攻しました。これを予防的措置として許容できるかはかなり意見が分かれそうですが、原理的には予防原則と言えます。

恐怖と不安 

 予防原則が阻止しようとする対象は将来的に訪れることが推定できる「恐怖と不安」です。恐怖と不安は言うまでもなく根源的でとても強い感情の一つです。大きな音や苦い味、暗闇や鋭い痛みのような命の危機を喚起するものに生物は反射的な反応をしてしまいますが、恐怖と不安に対しても同様です。怖い情報や強い不安が存在すると人間はどうしても離れたい、隠したい、消し去りたいと願ってしまいます。

 予防原則で難しいのはまさにこの感情です。予防的な措置を行った結果を吟味して考える前に反射的に過剰な予防対策を取ってしまうことが簡単に起こり得ます。イラク戦争などは傍から見ていれば明らかな過剰反応でしたが、9.11テロを経験したアメリカ人からすればイラクが現実的な恐怖として見えていたのです。

 また事例として出しますがワクチンも過剰反応が分かりやすい例です。イギリスの医学者エドワード・ジェンナーが有効性を確認した牛痘による天然痘予防が最初のワクチンですが、最初はもの凄い反対運動が起きました。牛痘を打たれた人間は牛になってしまうという迷信が広まったためです。今の私たちからすればそんなわけないことがすぐに分かりますが、当時の人々からすれば予防接種は未知の行為であり、明確な恐怖と不安の対象だったのです。

 (現代でもmRNAワクチンがDNAを組み替えると怖れる人が居ますので、人間は変わらないのだなぁと感慨深くなります。)

 

 この恐怖と不安に抗うことは難しいです。しかしだからといって過剰反応をしていいという免罪符にはなりません。過剰反応が悪い結果を引き起こした事例は無数にあります。予防原則を錦の御旗としてはいけないのです。私たちはできる限り理性的に現実を把握し、リスクに見合った対策を立案し、効果を確認しながら一歩一歩進めなければいけません。