忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

陰謀論が悪いのではなく、迷惑を掛けることが悪いのだ

 陰謀論とはそもそもの定義が曖昧ではありますが、「他に妥当な説明があるにも関わらず、何かしらの巨悪が背後にいて関与していると考える」、もしくは「偶然の一致によって起きた出来事を何者かの策謀によるものだと考える」といったものを指すことが一般的です。

 別の表現をすれば、オッカムの剃刀やハンロンの剃刀を考慮していない状態です。物事を説明するために必要以上に多くの仮定を想定するべきではない、また無能で説明が付くことに悪意を見出すべきではない、という思考の原理から外れて、隠された闇の組織のような不要な仮定を持ち出して物事の説明を付けようとしているものが陰謀論と呼ばれます。

 

陰謀は実在するのがややこしい

 難しいことに、では世の中に陰謀は無いかと言えばそんな訳はなく、当然ながら陰謀は存在します。「物事を説明するのに不要な仮説」は切り落とすべきですが、それは切り落とされた不要な仮説の不在証明とはならないということです。

 様々なプレイヤーが利得を得ようと跋扈する世の中において陰謀が存在しないと考えるのはナイーブに過ぎます。政財界のフィクサーや謎の宗教団体、公にされていない国家や企業の暗部を司る組織といったものは普通に実在していますし、それこそ企業内やサークル内といったより小さな集団においても表立たずに暗躍する人は居るものです。大なり小なり陰謀というものは実在しています。

 ただ重要なのはそれが説明には不要な場合は用いるべきではないということです。例えばロッキード事件の概要を理解するのであれば児玉誉士夫のような政財界の黒幕の存在とその陰謀を欠かすことは出来ません。そのように実際に動いている人や組織の陰謀が白日の下に晒されて、かつそれに意味がある場合のみ語られるべきものです。

 現時点で明白でなかったり他に妥当な説明が存在する場合であれば陰謀をわざわざ持ち出す必要はありません。明白でないということはつまり「仮説」なのですから、それはまだ説明からは切り落としておくべきです。

 

陰謀論自体は別に悪いわけではない

 とはいえ陰謀論は時には必要なものです。ある物事を証明するためには反証を集める必要があることを考えれば、陰謀論はその反証となり得ることがあります。

 また陰謀論自体は思考実験としてなかなかに面白いものですので、個人的にも知的好奇心を満たす趣味として収集しています。非常に説得力のある陰謀論もあれば、恐らく事実だろうというところまで迫った陰謀論もあります。イルミナティやフリーメイソンのような組織は世界中で人気があり彼らを軸にした陰謀論は想像以上にしっかり論理構築されていて面白いですし、まずもって物事のバックグラウンドに様々思索を巡らせるのは頭の体操としてアリです。

 なにより思想信条は自由であるべきです。人が何を考えているかを罰するべきではありません。陰謀論を考えてはいけないとまで思想統制をするような社会のほうが全体主義的で危険だと私は愚考します。

 

悪いのは押し付けること、迷惑を掛けること

 社会とは共通の幻想を共有する集団です。原理原則や事実ではなく、国家、宗教、民族、主義、地域、家族、全てが良くも悪くも幻想なのです。

 陰謀論が問題になるのはその社会を構成している幻想そのものへの攻撃を行う場合、すなわち異なる幻想を社会に押し付けるからです。実行者からすれば真実を喧伝し人々の目を覚まさせるという善意かもしれません、しかし嫌な表現となりますがそれは余計なお世話になる場合がほとんどです。社会の持つ真実が幻想であるのと同様、陰謀論者の持つ真実だって幻想なのですから。

 異なる幻想を良しとするのであれば、その幻想を徐々に社会へ浸透させるか、もしくはその幻想を軸として別の社会集団を作るべきであり、社会に共通の幻想を攻撃的に破壊しようとすべきではありません。そんなことをしては社会全体から反発されるのは当然であり、下手をすれば追い立てられてしまうのです。その集団に属したいのであれば共通の幻想を破壊するようなことは控えなければいけません。

 簡単に言えば、ハチの幼虫を見て、「こんな狭いところに閉じ込められて可哀そうだ、外に出してあげよう」とハチの巣を壊したとして、それが善意であろうともハチから攻撃をされるのは当たり前だということです。ハチからすればとんだ迷惑なのですから。

 

結語

 極端ですが、社会における善とはその社会構造を維持できる方向性を持つものを指します。子どもを産み育てる、弱者を救う、納税して共有資産を提供する、人に優しくする、そういった全てが社会構造とその構成員を守るために必要な幻想であり、それに反することが悪とされます。これは簡単な理屈で、反社会(パブリックエネミー)がなぜ社会の敵足り得るかと言えば、それはただ単純に”反”社会であるから、ということです。

 思うこと、考えることは自由です。社会の幻想に囚われないよう思索するのは決して悪いことではありませんし、必ずしも社会の幻想と自己の幻想を一致させる必要はありません。そこには乖離があってよいですし、あってしかるべきです。

 しかし幻想そのものへの攻撃は幻想を共有する人からすれば悪だということを忘れてはいけません。自身にとっての幻想と善悪があるように、他人や社会にもそれぞれ異なる幻想と善悪があるのですから。

 つまりはガラスのコップに熱湯を注ぐようなことはいけないということです。そんなことをしてはコップが割れてしまい誰も飲めなくなってしまいます。