忘れん坊の外部記憶域

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個人と集団での優しさは異なる

 今回はリアリズム寄りの見解を述べます。

 他人へ何かを施したり社会のために奉仕したりする個人の優しさはとてもとても素晴らしいものです。優しい人を私は尊敬しますし、私自身も人に優しく生きていきたいと考えています。

 しかし、個人的な優しさと集団での優しさを同一視するのは問題になる場合があります。特に政治においては個人の優しさと政治的な優しさを混同するのは危険ですらあります。

個人と集団での意思決定の違い

 個人の意思決定においてはどのような判断をしても個人の責任範疇です。人や社会のために私財を投じたり時間を消費するとしてもそれは自らのモノであり、私的財産の使い道は誰からも強制されるものではありません。法律に則り世の害悪とならない限りは自らの望むままです。

 しかし社会における意思決定は個人とは異なります。もちろん意思決定者が独裁者であれば別の話ですがそれは例外として置いておきましょう。社会が人や別の社会に提供するお金や時間はその社会の共有財産です。よって民主的な社会であれば総意なり多数決なりで適切な意思決定を行う必要があります。

 意思決定が適切になされない場合は大きな問題となります。例えば家族と相談無しに家計のお金を使って慈善団体に多額の寄付をしたとすれば、その晩は楽しい楽しい家族会議のお時間になるでしょう。無事に事後承諾が得られれば良し、得られなければ吊し上げです。

 これが家族の規模ではなく地域や政府のレベルとなるとさらに難しくなります。分かりやすい事例であれば税金の使い道です。まさに税金こそは国家という社会の共有財産の代表例であり、適切な合意無く訳の分からない使い方をすれば即座に批判の声が浴びせられることとなります。

 ここで難しいのが共有財産をどのように消費するかは適切な合意でなければいけないということです。目的が善意や正義といった優しさに該当するものであってもそれについて合意をせずに共有財産を消費することは不適切な判断となり、社会の分裂や敵対勢力の助長を招きます。

 例えば他国が自然災害で大きな損失を受けた際に国際救助隊や金銭の支援を税金ですることは日本国内で合意を取れており、そのための予算も準備されているため問題になりません。しかし途上国のインフラ整備や船舶・航空機の供与などを政治家が勝手にやろうとすれば、善意であってもまず国内合意を取らない限り批判されるでしょう。軍事の面でも同様に、例え軍事独裁政権が民衆を虐殺したとして、それが正義であるとしても、自衛隊を派遣して鎮圧することなど国内で適切な合意を取らない限り絶対にできませんし、やってはいけません。

合意が必要な理由

 なぜ共有財産を使用するのに合意が必要なのか、それは私たちが全体主義国家ではないからです。全体主義国家であれば「お国のために」財産を提供し、共有財産はお国が使い方を勝手に決めるということが可能です。しかし自由主義国家ではそのようなことは私権の制限となることから許されません。目的が善意であろうが正義であろうが、集団が他所に優しくするために使える資源は皆のものであり、適切な合意が必要なのです。

 極端な表現となりますが、「他国に優しくするために私たちの共有財産を使う、これに反対する奴は非人道的な人間だ」という論調を取ってしまうと、戦前の「お国のために死んでくれ、反対する奴は非国民だ」とまったく同じだということです。方向性が違うだけでそれは全体主義になってしまいます。

結論

 私個人としては他者に優しくすることにまったく異論もありません。お人好しの金蔓国家と思われようと、日本が世界のために役立つことも良いことだと思っています。

 しかし個人の優しさは「どこまで自己を犠牲にできるか」というパーソナルな問題であるのに対して、集団の優しさは「どこまで集団内で合意を取れるか」というソーシャルな問題であることを忘れてはいけません。集団の共有財産を使うことにおいて優しさは免罪符にはなり得ないのです。