忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

経済学はイデオロギーを避けることができない

 SNSでは定期的に転売問題が炎上騒動になるような気がします。

 私個人はメーカーに勤務するメーカー至上主義者であり、例え高かろうとも可能な限り直売店、もしくは小売りで新品を買うことを無駄に嗜好している人間です。そのため転売されている方から何かを購入したことが無く炎上騒動もまったくの他人事として眺めているのですが、法律的な面や商道徳の観点、経済的な合理性や感情論、個人的な希少品の転売から大規模な買い占めまでマクロミクロ経済入り乱れた状況設定と、炎上騒動では様々な切り口での応酬が発生しています。

神の見えざる手

 冷静な議論は炎上していると難しいでしょうが、専門家の方々も議論に参加しているのでいずれ何らかの結論に収斂するかとは思います。しかし、この下線部のこれこそがまさに経済学的な問題が炎上する最大の要因だと考えています。つまり需要と供給はいずれ均衡するという「見えざる手」が存在する場合、それはいつになるかという現実的な問題に説明が付いていないことが要因です。

 私は初等レベルの経済学しか学んだことが無いため上等な経済学理論ではあるのかもしれませんが、需要や供給に関する関数には時間変数が見当たらないのです。誰かが買い占めてもいずれ市場は適正価格に落ち着くのだとしても、極端な話それが100年後であれば生きている人間からすれば均衡しないのと同義です。

 つまるところ、転売問題での議論は過去から延々と続いている古典派とケインジアンの論争の延長線だということでしょう。なかなか決着が付かないのも納得がいくというものです。

経済学とイデオロギー

 経済学は市場へどの程度人々が介入すべきかを考えることからどうしても主義主張、すなわちイデオロギーを帯びることになります。

 自由主義者であれば政府の介入を最低限にすべきと考えることから新古典派との親和性が高く、権威主義者であれば政府の介入を必要だと考えてニューケインジアンに近い考えを持つでしょう。経済政策を国家・政府が策定する以上、こればかりはどうにもなりません。歴史学や生物学と同様にイデオロギーが学問を絡めとってしまうことは往々にして発生しますし、経済学はその発展と共にイデオロギーによって分派したことからもはや分離し難い状態となっています。

 また、過去の記事でも書いたのですが、経済学は論拠を人に強く依存しているように感じます。人に拠るということは、その人のイデオロギーを否応なく受けざるを得ません。

 例えば冒頭で話題にした転売問題に関して、パレート最適にならなかった市場を意味する「市場の失敗」という言葉を関連ワードとして調べるとwikipediaの記事が見つかります。

市場の失敗 - Wikipedia

 記事を読むと分かるのですが、識者の見解として「誰さんはどう言っている」「対して誰さんはこう言っている」ということが連ねられています。

 技術屋からすれば誰が言っていようとどうでもいいと思ってしまいます。そんなことよりも理論としてはどのような原理に則ったものなのか、どのように手を加えるとどう変化するのか、といった自然科学的な方法論による理屈を求めてしまいます。

 もちろん自然科学であっても突き詰めていけば理屈が分かっていないことばかりではありますが、理屈がブラックボックスであっても入力と出力に具体的な関係性を持った状態、つまり函数(機能・ファンクション)が明確になっているものを原理原則として用います。

 例えば熱平衡、違う温度のものを接しておくと同じ温度になるまで熱が移動するという原則ですが、発見当時はなぜ熱が移動するかは分かっていません。しかし暖かいものは冷たいものに熱が移動していくものでその逆はありません。コーヒーを入れて部屋に置いておいたら室温まで冷めていくもので、反対に勝手に熱くなることは無いのです。このように関係性が明確であるため、理屈は分からなくても役に立つ原理原則として長年用いられてきました。

 経済学の理論は入出力の関係性、函数(機能)がもう少し明確になるといいのですが。語る人によって「何をした結果どうなるか」が違うのでは原理原則としてとても扱いにくいと思ってしまいます。