忘れん坊の外部記憶域

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情報の信頼性はどのように担保されるべきか

 先日、文春オンラインの記事がバズっていました。

 内容については置いておくとして、個人的に気になったのは情報の信頼性はどのように担保されるかというところです。

インターネットの情報は信用できないけど

 インターネットの情報は信用できないので正しい情報が載っている新聞や本を読もうというのがメディアや出版業、学者他様々な方々の一般的な見解かと思います。もちろんインターネットの情報は玉石混交、安易に信用してはいけないというのは完全に同意します。私のブログのような玉ではなくに該当する情報だってインターネットには山ほどあるわけで、情報を適切に読み解くリテラシーが不足しているとインターネットが有毒になることは充分に考えられます。

 しかしながら今回のような書籍の信頼性が問われるような事態になった時、人々は何を信じればいいのでしょうか。活字メディアの信頼性を担保しているのは出版社に勤める編集者には生活が掛かっているというプロ意識・職業意識です。よって編集者としても生活ができる、つまり本が売れるのであれば情報の確度とプロ意識を犠牲にして話題性を重視する事態に陥りかねないことが今回の事例からも分かります。実のところ書籍の信頼性についても担保は充分ではないと言えるかもしれません。

 同様のことは科学論文、医学論文でも言えます。アカデミックな環境にいたことがある人ならば存じているかと思いますが、論文の査読というのは論文の質を担保するものとしては確実ではありません。もの凄く頭の良い学者先生方でも他にこれ以上優れた仕組みが思いついていないために頼っているだけのものです。

査読の限界を理解する | Edanz Learning Lab | 研究のインパクトを最大化するスマートリソースとソリューション

再現性の危機 - Wikipedia

 査読には大まかに言って「再現試験をするわけではない」「元データを見るわけではない」「統計処理を確認しない」「利益相反がどうしてもある(査読者は自分の研究を否定するような論文にOKを出しにくくなる)」というような課題があります。査読はボランティアなので課題を解決するような時間を掛けることは現実的にできません。よってヘンドリックシェーンさんや小保方晴子さんの事例のように、時に致命的な誤りを含んだ論文が世に出てしまうのです。

一次情報だから信用できるわけでもない

 情報は情報源から離れれば離れるほど信頼性が疑わしくなります。ならば一次情報、つまり自分が直接体験した情報であれば信頼に足るかと言われればそれもまた怪しいものです。人には必ず認知バイアスというものが存在します。

 分かりやすい事例としては事件や事故の目撃証言です。直接現場に居てその瞬間を目撃したはずの証言者の意見は往々にして食い違ったり誤ったりします。これは意図して嘘を吐いているのではなく、人間は衝撃的な記憶を消してしまったり直前の事象と混同するような脳の仕組みを持っていることが原因です。よって犯罪心理学では一般に目撃者から得られる情報の信頼性は低いと言われています。

 また情報源の所属や質問者によっても情報の意味が変わることがあります。中東においてアメリカ人の記者がアメリカの軍人に質問すれば「過激派が暴れていて危険な街だ」と答えるでしょう。中東の記者が中東人に質問すれば、同じ地域でも「私たちの街は平和だが、アメリカの軍人が居て怖い」と答えるかもしれません。同じ地域の情報を集めているのに人によって情報が変わってしまうのです。

 他にも一次情報の一般化は難しいことがあります。例えばある薬を飲んだ結果ハゲてしまったとします。本人にとっては「薬を飲んだ結果ハゲた」という因果が真実です。しかし製薬会社が調査した結果ハゲたのがその人のみ、さらに薬効が頭部に作用するはずが無い薬だったとすれば、製薬会社は「薬を飲んでもハゲるわけではない」と答えるでしょう。事実その薬を飲んでハゲるのではないのだとしても、ハゲた本人にとってはハゲたということが真実です。以上より、一次情報だから絶対的に正しく汎用的だということはありません。個人の経験はあくまでも個人の経験なのです。

情報の信頼性はどうすればいいのか

 結局のところ情報の信頼性を絶対的に担保するものはありません。信頼性の高い情報を長らく発信してきたという実績から、メディアや書籍、学者のような方々の情報を第一とすべきではありますが、あまり実績に頼るのも権威主義に陥る危険があります。最終的には個々人で情報の選別と取捨選択、信頼性の判断をするしかありません。当たり前の結論ではありますが、情報リテラシーが大切だということです。