忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

技術屋に立ちはだかるコミュニケーション不全のストレス

 技術屋って楽しい、エンジニア最高!と日々思ってはいるのですが、そんな記事を時々書いているとなんだか情報商材や健康グッズを宣伝しているような気分になるので、たまにはネガティブで愚痴っぽいことを書いてみましょう。何事もバランスが大切ですからね。

 当たり前の話ではありますが、物事には良い面と悪い面があります。私は悪い面をあまり語らないだけなのです。

 

コミュニケーションが一番しんどい

 コミュニケーションは伝わらなければ意味が無く、受信側よりも送信側により責任がある、と過去に記事を書きました。

 その考え自体は変わっていないのですが、正直なところ限度があるとも思っています。聞く気が無い人に対して何をどうすれば伝達できるのか分からないのです。

 設計屋の仕事は多岐に渡り、設計に絞れば大きく2つ、「設計するフェーズ」と「その設計を周囲に理解してもらうフェーズ」があります。

 設計は「僕の考える最強の機械・システム」を考えているようなものなので、小学生の放課後くらいの楽しさです。つまり世界で一番楽しい時間です。一人でこねくり回してグヘヘと笑うもよし、チーム皆でガヤガヤと考えるもよし、思考に詰まったり難しい計算が必要になったとしても「へへ、良い逆境だぜ!」「このピンチを乗り越えたら最高にカッコいいぜ!」と笑うくらい心に余裕があります。まるで本当に小学生のよう、というか成長していないだけ?

 さて、そんな素敵時間が過ぎれば次に待ち構えているのは設計を理解してもらうフェーズです。これがとにかくしんどい場合があります。

 凄く偉い人に説明するのは簡単です。設計そのものではなく市場性や将来性、つまりお金の話が中心となるので、設計的・技術的に難しい話はほとんどしません。

 営業さんや広報さんに説明するのも難しくありません。大まかな掴みの技術だけ説明すれば事が済みます。

 ハードネゴシエーションになるのはそれらの前段階、設計そのものの判定をする際です。そこでのコミュニケーション不全こそが心身を摩耗します。

 

自明のことを説明するのは大変

 設計チームは当然ながらスペシャリストの集団です。その分野の技術者であれば分かり切っている自明の事柄についていちいち確認を取ったりはしません。

 しかし設計審査においてその分野に詳しくない人がいて、あまつさえ決定権を持っていたりするともう大変なことになります。

 適当で簡単な例を考えると、

「この部品は応力腐食割れの心配は無いの?」

「応力の掛かる構造ではありませんし、SUS316Lを使っているので大丈夫です」

「よく分からないな、説明が足りないよ」

「ええと、炭素含有率が低くすることによって耐食性を高めた材料がSUS316Lでして」

「難しくて分からないな、どういうことだい」

「ステンレス鋼は炭素を含んでいて、条件によってはクロムと炭素が結合して鋭敏化が起こるのですが」

「もっと簡単に説明してほしいな」

「では腐食のメカニズムに関するテキストをスキャンしてきましたのでまずはこちらをご覧ください」

 この調子で大量の説明資料を用意して長時間のしょうもない説明をさせられると話がまったく前に進まなくなります。

 設計屋側からすれば

「手に持っているボールペンは、手を離せば下に落ちます」

「本当に落ちると言えるの?データは?根拠は?実験結果は?」

と聞かれているような気分でして。自明の事柄を延々と試験したり説明したりするのは苦痛以外の何物でもありません。試験せずに自明なことは試験したくありませんし、理論が明確なものは説明する手間が惜しいのです。

 経営を知らない人が企業の新しい事業展開にGOを掛ける判断をできないように、技術は技術を知っている人でなければ判定できません。技術的な内容を適切に判断できない人が判断するような状況は間違いなくおかしいのです。コミュニケーションは伝える側に責任があるとはいいますが、それは円滑なコミュニケーションのためであって状況に必要とされている受け手の基礎知識不足を補うためではありません。責任と権限を持ってその場に居るためにはそれにふさわしい知見と能力が必要です。

 基礎知識が無いことを話し手の説明不足に責任転嫁してはいけません。そんなのは交通事故の現場に浮気調査専門の探偵が調査しに来るようなものです。そこで車の種類やタイヤのメーカーについて聞いて回っていれば、「オメエさんの出る幕じゃねぇんだ、すっこんでろぃ」と言われても仕方がないのです。

 

使えるリソースには限りがあり、どこかで線引きが必要なことを理解していない、決断が出来ない

「この設計で絶対大丈夫って言える?」

「過酷条件で試験していますので、問題ありません」

「全部の条件でテストしてないなら大丈夫とは言えないだろ?」

 理屈を信用せず全てを実験したがる人がいます。目で見たものしか信用しないというわけです。

 しかし当たり前のことなのですが、全ての条件を試験することは出来ません。「誰が」「どこで」「どんな環境で」「どう使うか」の組み合わせはそれこそ無限大であり、それを実験で確かめるには無限大のリソースが必要だからです。どこかで線引きをして決断をする必要があり、意思決定者にはその決断力こそが求められています。

 情報には鮮度と量があります。鮮度を求めれば量は手に入らず、量を求めれば鮮度が落ちます。どこでバランスを取るか決められるのが有能な人です。

 例として、昔の軍隊では斥候(偵察部隊)をどれだけ出すかで指揮官の有能さが分かりました。無能な指揮官は判断材料にするための情報をとにかく集めようと大量に斥候を出すのですが、斥候が必ず正しい情報を獲得できるわけでもなく、また斥候は敵地での危険な任務のため帰還率も低いことから、決断できない無能な指揮官の手元には斥候によってもたらされた正誤曖昧で鮮度の落ちた役に立たない情報の山と損耗した部隊が残るのみでした。

 反面、有能な指揮官は手持ちリソースの活用を優先するため必要最低限の斥候のみを出します。そして数少ないものの鮮度の高い情報からどう行動すべきかを素早く決断します。手持ちのリソースはしっかりと温存されているため不測の事態があっても対応可能なままです。

 これはビジネスにおいてもまったく同様のことが言えるでしょう。情報を集めることに腐心して決断ができない意思決定者というのは大変に困ったものだということです。

 そもそも判断を間違えようがないほど完全な情報が手に入るのであれば誰だってその情報を元に決めることができるのですから、意思決定者なんて不要です。そしてそんなことはまず無いからこそ決断できる意思決定者を必要としているのです。

 

余談

 コミュニケーションがストレスの元だということは思い返せば過去にも愚痴っていましたね。

 まあ、逆に言えばコミュニケーション以外に仕事での愚痴が無いということで、悪いことではないのだと前向きに考えましょう。この問題点さえ解消できればさらに仕事が快適に・・・さて、どうやって解消すれば?偉くなって人事権を握るくらいしかないような?

 そうなったとしても今度はきっと「上に報告する内容が細かすぎる」なんて悩まず、「下の報告が大雑把すぎる」と愚痴るようになるんでしょうねぇ・・・人間というのは困ったものです。