忘れん坊の外部記憶域

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狂気に関する考察

本日の記事では常とは趣向を変えて狂気について語ります。

無いと信じていたいが、在る

 狂気は誰もが忌避し、遠ざけ、隠蔽を図るものです。自らが狂人であることに耐えられる人はそう居ません。しかし狂気の存在を否定し、拒絶し、かぶりを振りつつも、胸裏より表出する好奇心という魔物が狂気の存在を認知していることもまた事実でしょう。人は狂気に興味があるのです。だからこそ人の狂気を取り扱うサスペンスのようなジャンルが存在し得ます。傍には存在しないものとして扱いたい、しかしどこか心の奥、世界の裏側、目の届かない所に存在する狂気というものをつい覗き窺ってしまうのが人の性です。

狂気を表す言葉

 狂気の定義は「精神が異常になり常軌を逸していること、ありさま」ですが、他にも様々な表現があります。

 気が違う気が狂う異常を来たすなどは常軌を逸することである狂気を正確に表した表現と言えます。何らかの正常な状態が存在しそこから外れた有様こそが狂気ですが、しかし何をもって正常と言えるのか、正常とは何か、それを深く考えると難しい意味なのかもしれません。また正常とは変わったところがないこと、つまり恒常的で変わりがないことを意味しますが、そうなると正常とは何かを考えること自体が正常ではなくなり、容易に狂気へと反転することでしょう。狂気は正常と表裏一体であり、いつ何時でも傍、もしくは裏側にあるものかもしれません。

 気が触れるという表現もあります。触れるは接触することを意味する動詞ですが、他にも「折りを触れて」や「事に触れて」のように、ある時期や物事に出会うことを意味する言葉でもあります。つまり気が触れるとは何かしらの人では無い超常的な異種に触れてしまう、出会ってしまうことで訪れる不可避な現象であり、狂気は自らの内ではなく外からもたらされるものだとして心身の平穏を保ちたいが故の言葉なのかもしれません。

 狂を発するとは触れると真逆であり、自らの心の内から狂気が表出することを表しています。しかしこれこそ狂気を明朗に描写する言葉とも言えそうです。己の内に狂気が存在していることを誰もが認知しており、ただ今は心の奥底で伏せて醸成されているだけなのだということを察しているからこそ、人は狂気が覚醒して表に発することを恐れるのかもしれません。本当に心の内に存在していないのであれば、恐れることなど無いのですから。

狂気と笑い

 少しおどろおどろしく狂気について書いてきましたが、人は狂気を恐れるだけでなくサスペンスのようなエンターテインメントしても取り扱っています。ジェットコースターのように人は恐怖を楽しむこともできるのです。

 エンターテインメントや娯楽作品では非日常、つまり「常からズレた出来事」を誘因として観客へ刺激を与えています。その中でも一番分かりやすいのはユーモアや笑いです。笑いが起きる理論にはいくつかありますが、そのうちの一つは不一致の理論(ズレの理論)と呼ばれています。予測していたことや日常からズレている事柄に人は可笑しみを覚えて笑いを誘われるということです。

 このズレの論理はまさに狂気と同様の理屈です。どちらも正常と思われる状態からのズレを表しており、人はそれによって恐怖や笑いといった感情を刺激されます。ベクトルが異なるだけで元となる誘因要素は同じなのです。

 これは他にも緊張と緩和で説明ができます。物語は日常を描くだけでは観客を楽しませることができないため、必ず日常からズレた緊張と緩和の場面を挟みます。このうち恐怖は緊張側、笑いは緩和側で発生する感情です。ホラー映画等でコメディシーンが多用されるのは緊張の場面に視聴者を慣れさせないため、そして緊張と緩和の落差を大きく見せるためでもあります。

 つまりエンターテインメントや娯楽作品は狂気と笑いを上手い事配分してコントロールしているのです。思ったよりも狂気は身近で、恐れる必要が無いものなのかもしれません。