忘れん坊の外部記憶域

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楽観か悲観かは重要ではない

 物事の見方には大枠として楽観的思考(楽観主義・ポジティブ思考)と悲観的思考(悲観主義・ネガティブ思考)があります。フランスの哲学者アランは「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」と述べているように、世の中の風潮としてはポジティブで前向きな楽観的思考のほうが優れているとされていますが、実のところ楽観と悲観は思考段階のものでありどちらであっても問題ありません。

楽観と悲観の違い

 楽観と悲観は元々は哲学の用語であり、この世は苦と悪に満ちているという考え方を悲観主義(ペシミズム)、苦や悪があっても全体的に見れば世の中は良いものだという考え方を楽天主義(オプティミズム)と言います。考え方になぜ違いが出るのかは様々な学者先生が研究されており、遺伝的な影響もありますが生育環境の方が影響は大きいようです。また大人になってからも訓練次第で変えることができると考えられています。

 楽観と悲観を比較するのによく用いられる例は、コップに飲み物が半分残っている時にそれをどう思うかです。楽観的思考では「まだ半分残っている」と考え、悲観的思考では「あと半分しかない」と考えます。

楽観で悪い時も、悲観が良い時もある

 ”主義”と銘打たれてはいますが、常に片方だけが採用されるわけではありません。どちらが優位になるかはその時々の状況や心境によって変わるものです。100億円持っているギャンブラーがはした金の1000万円を賭ける場合は楽観的な気持ちになるでしょうし、一般人が長年貯蓄してきた1000万円を賭ける場合は極めて強い悲観を感じることでしょう。

 楽観であれば良いというわけでもありません、楽観が過ぎて道を誤る場合も多々あります。イケると思って進めた物事、始めた事柄がどうにも思ったように回らないことはありふれた事象でしょう。反対に悲観によって回避できる危険もあるわけです。楽観が良く悲観が悪いと単純に二元論で片付けることなく、臨機応変、状況に応じて使い分けたほうがいいでしょう。

人の思考はなんであっても構わない

 楽観的思考、悲観的思考、どちらも個人の考え方のベクトルです。つまり「己」にとっては重要かもしれませんが、周囲や世の中からしたらどうでもいいことだったりします。周囲や世の中が気にするのは何を考えているかではなくどんな行動をして周囲に影響を与えているかです。

 変な例を挙げてみましょう。きのこの山とたけのこの里が半々で入っているファミリーパックを買ったとします。二人で分けて食べるとして、「私はきのこの山が好きでたけのこの里が嫌いだからきのこの山だけ食べたい」という考えを片方が持っていた場合、ここで重要なのはその人がきのこの山を食べられるかどうかです。相方が「たけのこの里が好きだからきのこの山をあげよう」と思っていようが「この人はきのこの山が好きだから譲ってあげよう」と思っていようが、結果としてきのこの山が食べられれば満足です。反対にきのこの山が食べられなければ相方が何を考えていても不満でしょう。

 もちろん考えの種類によっては行動に出てしまうものです。例えば人への悪意や敵対心は行動の結果に影響を与える可能性が高いです。しかし楽観や悲観においては影響を与えるのは行動の有無だけであり、結果に影響を与えるものではありません。楽観的だろうが悲観的だろうが行動した結果は同じです。

 楽観的か悲観的かではなく、この行動の有無が重要なのです。何もしなくても大丈夫だろうという楽観が悲劇を招くこともありますし、不安だからバックアッププランを用意しておこうという悲観が惨劇を回避することもあります。重要なのはどう考えたかではなく、どう動いたかです。

悲観を嘆く必要は無い

 前述したように悲観的思考は環境要因が大きいものです。だからこそネガティブであることが悪いと思う必要はありません。悲観的思考は石橋を叩いて行動しなければいけない時には必要不可欠な思考なのですから、無いよりむしろ有ったほうが良い考え方と言えます。もちろん石橋を叩いた後に踏み出す行動は必要ですが、悲観的な人の行動の方が私は信頼できます。