「日本はやり直しができない社会だ」という言説を聞いたことがあるかと思います。確かに日本には切腹のような責任文化があるので腑に落ちやすくはありますが、実際のところはアメリカほど学歴・職歴重視の社会でもありませんので日本はどうこうと言うほどでもないとは思います。言ってはなんですがどこも同じです。労働力の流動性とセーフティネットのバランスが異なるだけです。
どのような社会でも歳を重ねる毎にリターンマッチが容易で無くなるのは多少仕方がないのかもしれません。高齢になればどうしても身体の衰えや記憶力の低下が起きます。それを補えるのは今まで積み重ねてきた経験以外に無く、逆に言えばその経験が無いとリターンマッチの機会を手に入れることはなかなか難しくなるでしょう。
反面、若者は経験こそ少ないものの体力と吸収力に優れており、雇う側もその点を期待しているため若いうちであれば多少の失敗や間違いは許容されます。失敗してもリターンマッチが容易にできるというのは若者の特権です。
若いうちは失敗してもいいと言うが
すでに若者ではなくなった方々も昔は「若いうちは失敗してもいい」と教わってきたと思います。若いうちの失敗や間違いは将来への財産であり、良い経験です。むしろ失敗経験こそが年を経た後に適切な判断力へと結実することでしょう。失敗してもいいので若者にはぜひとも様々な挑戦をしてもらいたいと思っています。
しかしながら、現代社会はおそらく過去に類を見ないほどの「失敗できない時代」に突入していると考えます。これは時代の流れなので仕方がありませんが、若者には年々厳しい時代に向かっていきそうです。
正解が無いのに有るとされる
かつてであれば「正解」を知っている人は一握りで、その情報の独占こそが権力者・成功者の証でもありました。そのような正解を持っていない個々人は失敗を積み重ねることで経験的に「自らにとっての正解」を手に入れていたのです。
しかし現代は情報社会です。ありとあらゆる情報が巷を跋扈しており、無数の「正解」が世界中を縦横無尽に飛び交っています。こうすればいい、ああすればいいという無数の指導書・マニュアルが乱立しており、しかもその「正解」は本当に正解なのか、はたまた正解のような何かなのかは不明瞭です。そもそも「正解」は個々人の能力や環境によっても異なります。当たり前のことですが、ビル・ゲイツの真似をすれば誰もがビル・ゲイツになれるわけではないのです。
今の若者は失敗して経験を積むことが難しくなっています。失敗すれば「そこに正解があったじゃないか、何故この正解を使わなかったのか」と責められてしまいます。その「正解」には「正解」というラベルが貼ってありますが、それが「その若者にとっての正解」かは他人には分かりません。やり方の合う合わないは本来人それぞれです。それなのに巷に転がっている「正解」と言う名の何かを用いて失敗した若者は叩かれてしまうのです。
失敗を叩くべきではない
時代が進むにつれて情報の拡散力は高くなる一方です。ひとたび注目を集めてしまえば瞬く間に情報が伝播してしまい、不寛容な人々が寄って集って失敗した人を叩きに来ます。多くの人は失敗を経験値とする前に叩き潰されてしまうでしょう。さらに言えば情報の揮発性は下がり、昔よりも遥かに長く残るようになりました。過去の失敗すら容易に発掘されてしまいます。
誤解してはいけないのは失敗と悪事の違いです。失敗とは「正解」を選べなかったというだけのことで、決して悪いことではありません。悪事とは人に迷惑をかけたり法を破ったりというようなことであり、それは失敗とは言いません。ここは混同してはいけないところです。失敗というのは砂糖を入れるつもりだったのに塩を入れてしまったというようなことです。そういった失敗を叩くべきではありません。誰にでも失敗はあり、その経験があってこそ「正解」を選べるようになるのですから。
確かに世の中には無数の「正解」が転がっています。しかしそれらを使えば本当に失敗しないのかと言えばそれはまた別の話なのです。その「正解」が使えるどうかかは人の違いや環境によって変わるということを忘れてはいけません。
最後に
行動には失敗が付きものです。そのため失敗を叩くような世の中では失敗を避けるために行動しないほうが安全になってしまいます。誰もが失敗しないように委縮して良い行動すら躊躇われるようになるのは、あまり良い世の中とは言えないでしょう。