忘れん坊の外部記憶域

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「書く」ことへの思索

 人が他の生物と明確に異なる点の一つとしてコミュニケーションの距離があります。他の生物は身体の動作や発声、匂い、色、光などを用いて相手とコミュニケーションを取りますが、それらはいずれも同時間における直接的な距離です。対して人間は言語を用いて間接的かつ長距離、そして時間を超えたコミュニケーションを取ることができます。言語こそが知識の共有を容易にし、人の繁栄を確立する一助となったことは間違いありません。

 現代では動画や通信技術が発達し、言語のみでなくジェスチャーや発声のような直接的コミュニケーションの一部すら時間を越えて長距離に伝達することができます。そう考えると本やブログのような文章におけるコミュニケーションは少し前時代的な方法かもしれません。

 しかし文章によるコミュニケーションは長い歴史があり、考えてみると面白いものです。今回はそんな、言葉を「かく」ことについて考えてみます。

言葉をかく

 本やブログでは言葉を「書く」ことで情報を発信します。は書き記す動作や書かれた手紙・本そのものを意味する言葉であり、筆者の意図を何らかに残す行為・残された物ということが包括して表現されています。厳密に言えば今時は電子媒体が主流になっており本やブログは「打つ」ことで残しているのですが、これだと少し味気ない気がしてしまいます。やはり今でも「書く」と表現したいものです。

 筆者の意図を残す行為が「書く」ことですが、そのために使うのはもちろん言葉です。しかし言葉は読んで字の如く言の葉であり、言語行為の枝葉に過ぎません。どれだけの考えや想いを持っていても、言葉だけではその意図を全て伝えることはできないのです。言葉を「書く」ということは「欠く」ことなのかもしれません。

 「かく」ことについてもう少し広げてみましょう。

 物を肩に担いで運ぶことを「舁く」と言います。少し古い言葉ですが駕籠を舁くのように使います。言葉を「書く」ことは「舁く」こと、相手に伝えたい想いを言葉に託して運び届けるということに繋がるのではないでしょうか。

 しかしながら「舁く」には担いで運ぶだけでなく、人を担ぐと同様に騙すという意味があります。人を欺き騙すためには言葉が使われることから、言葉を「かく」ことは書き手によって良いことにも悪いことにも使えることを暗に表しているのかもしれません。

 他にも何かを組み合わせたり結んだり、編み込んだりすることを「掛く/懸く」と言います。様々な想いを言葉に変えて、連ねて編み込み形に残す、まさに言葉を「書く」ことは「掛く/懸く」ことと言えるでしょう。

 私たちは言葉以外にも色々なものを「かく」ことがあります。汗や恥、べそなどはどれも「かく」ものです。この「かく」は外に現れる、身に受けるといった様子を表す意味を持ちます。言葉を「書く」ことは、身体に現れるものとは違う形で筆者の様子を「かく」ことなのです。

 若い時分に書いた言葉などを読んでみると、体を「掻き」たくなるようなむず痒さを覚えるかもしれません。それでもまだ言葉を「書き」続けるのは「かく」ことの魅力に抗えないからでしょうか。

書くことへの思索

 言葉を書くという行為は、時に人を欺くまやかしでもあり、時に想いの全てを伝えられずに欠けるものでもあります。それでも人は言葉を書き続けています。言葉を書くという行為は、誰かに通じることを信じてできる限りの想いを結び、束ねて届ける祈りのようなものなのかもしれません。

 斯様に「書く」ことについて"かく"語ってきましたが、所詮はただの言葉遊び、書くことは書くことでしかないのかもしれません。ですが、言葉に囲まれている日々の生活の中、時には言葉を「かく」ことに想いを馳せるのも悪くはないでしょう。