ジャーナリズムとは、誰かが報じられたくないものを報じることであり、それ以外はすべて広報である。
Journalism is printing what someone else does not want printed; everything else is public relations.
ジョージ・オーウェルが言ったとされる言葉です。実際に言ったのは別人らしいですが、まあオーウェルが言いそうな言葉ではあります。
報道・ジャーナリズムとは
報道とはニュースや事件・事故といった出来事を取材・調査してそれを公表する行為です。ジャーナリズムはもう少し広い概念で、解説や批評も含みます。そういった報道やジャーナリズムを行う組織を報道機関と言います。
報道機関の目的として、情報の伝達や発信以外にも権力の監視が挙がることがあります。しかし、これは実際のところ報道機関の主たる機能ではありません。報道機関は元々情報屋や噂屋から発展して出来た仕事であり、権力の監視というのは良く言えば民主主義成立後に後付けで発生したおまけの機能、悪く言えば報道関係者による虚飾と宣伝の効果に過ぎません。
例として国際ジャーナリスト連盟が1954年に採択、1986年に修正した「ジャーナリストの義務に関するボルドー宣言」では、ジャーナリストが守るべき義務をいくつか挙げています。
◆Status of Journalists and journalism ethics: IFJ principles - IFJ
大まかにまとめると以下のようなことが義務として挙げられています。
- 真実の尊重、国民の真実に対する権利の尊重
- 情報の正直な収集と自由な公開、公正なコメントと批判の権利を擁護
- 出所を知っている事実に基づいて報道、重要な情報の抑制や改ざんの禁止
- 公正な手段による情報の入手
- 不正確な情報の修正
- 秘密裏に入手した情報源の秘匿
- 差別を助長するような報道を避ける
- 盗作、悪意のある虚偽、誹謗中傷、名誉棄損、根拠の無い告発、贈収賄の禁止
- 政府又は他者によるあらゆる種類の干渉を排除
権力からの干渉を排除することは書かれていますが、ボルドー宣言ではどこにも権力の監視という言葉は入っていません。権力の監視がジャーナリストの義務的なものとは考えられていないことが分かります。
実際、日本の五大紙のうち、記者の行動規範として権力の監視を明言しているのは朝日新聞のみです。(見落としていたらすみません)
朝日新聞
読売新聞
毎日新聞
産経新聞
日経新聞
日本新聞協会の新聞倫理綱領においても権力の監視は文言に含まれていません。
ジャーナリズムにとって権力の監視は義務たる主のものではなく、一部の副次的なものであることが分かります。メディアや新聞で権力の監視を謳う記者は概ね朝日新聞か東京新聞の記者、もしくは元記者の方である場合が多いです。それはその社の方針だからということだけであり、決して権力の監視がジャーナリズム全体としての方針では無いのです。
ジャーナリズムに必要なこと
もちろんジャーナリストが権力に阿り、媚び諂うようなことがあってはなりません。公正な情報発信をするためにはあらゆる権力から距離を取り、干渉を避けなければいけません。
まあ、本来はスポンサーですら望ましくないのですが、記者も霞を食って生きていけるわけではないのでこればかりは多少仕方がありません。メディアを税金で養うようなことがあっては国民や政府に反対するようなニュースを発信できなくなってしまいます。そんなことをしては独裁国家と同じになるでしょう。
ただ、ジャーナリストにとって権力の監視が錦の御旗になっていることもまた事実です。権力の監視のためであれば何をしても良いというような発想に至る危険がありますし、実際にそのような事件は幾度も起きています。
何をしても良いというのは絶対的な権力と同義です。権力を監視するために自らが権力者になるのは筋が通る話ではありません。それであれば政治家のほうが選挙によって国民の信託を受けているだけまだマシというものです。
そもそも民主主義国家における権力者は様々な課題はあるとはいえ選挙によって国民による選抜を受けています。本来的に言えば権力の監視者は国民なのです。ジャーナリストの仕事は権力の監視ではなく、権力の監視者たる国民に適切な情報を届けることではないでしょうか。
結論
権力の監視というのは一部のジャーナリストが言っているだけのことです。決してジャーナリズムの義務や権利として持っているものではありません。権力の監視を拡大解釈するとジャーナリストそのものが権力者に変貌してしまいます。ジャーナリズムの暴走を避けるためにも、権力の監視という錦の御旗をあまり称えないほうが良いと私は考えます。