忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「私」はどの状態を指すのか~微積分と「私」の関係

 普段は人様のブログを直接的に取り上げることはあまりしないのですが、良い思索の種を見掛けたため紹介させてもらいます。

shikouzakki.hatenablog.com

 ある年齢の「私」の寿命は一年しかない。言い換えれば今年の「私」は今年しかいない、一年前の「私」は一年前の「私」であるし、一年後の「私」は一年後の「私」である。今この瞬間の「私」こそが今この瞬間の「私」である。それはとても概念的ですが、実感的でもあります。

微分・積分

 この感覚を年齢の範囲ではなくもっと細かく区切っていくとどうなるでしょう。昨日の「私」は今の「私」とはやっぱり違うものです。1時間前の「私」もやっぱり今の「私」とは少し違う存在でしょう。1分前、1秒前、もっともっと区切りを細かくしていくと、無限の分割の末にようやく真の「私」に到達します。物事を考えている今この瞬間の「私」は刹那の一瞬にのみ存在するのです。

 このように微小区間の変化を求める処理を数学では微分と言います。つまりある函数を微分した導関数、極限に小さい刹那の一瞬に存在する変化の表れが「私」です。

 逆に時間を延ばして考えるとどうなるでしょう。今年の「私」は今年しか居ませんが、それでも客観的な観測上では去年の「私」も今年の「私」も同じ個人として認識されています。「私」の意識は離散的なものかもしれませんが、生まれてから死ぬまでの社会的存在である個人は連続的なものです。無限の瞬間に一瞬だけ存在する無数の「私」が積み重ねてきた全てが社会的な個人を構築しています。

 このように区間の面積を求める処理を数学では積分と言います。つまりある函数を積分した結果の合計量、生まれてから死ぬまでの「私」全てを合わせたものも「私」であり、言い換えればこれは「人生」と呼ばれるのでしょう。

この函数は何?

 微分した結果が「私」、積分した結果が「人生」となるのであれば、ではこの元となる函数は何と呼べばいいのでしょう?

 物事を思考している今この瞬間の離散的な「私」ではないはずです、「私」はその函数が一瞬一瞬に出力している変化なのですから。しかし経験に基づいた連続的な「私」でもありません。連続的な「私」は区間を決めて函数を積分した結果であり、函数そのものではありません。

 今の「私」を出力し「私」を合計したものを出力するくせに、この函数に何というラベルを貼ればいいのかを決めるのは案外難しいのです。

 それともこの函数こそが「私」なのでしょうか。今この瞬間に思考をしている「私」というのは微小時間で区切った際に出力されている写像でしかなく、今の「私」が感じることや意識というのは函数そのものを変化させることはありません。今この瞬間の「私」は無意味な感覚で付属的なものでしかないのでしょうか。それはそれで理屈的には正しいような気もしますが、虚無主義的で寂寥感を覚える結論です。

 函数(関数)は英語でfunctionと言います。これは一般的には”機能”と翻訳されることが多いでしょう。まさしく「私」という存在はこの函数による機能が出力しているものです。微分によって現れる瞬間の「私」も、積分によって現れる合計の「私」も、そしてファンクションそのものである「私」も、ひっくるめて「私」と呼ぶべきかもしれません。

この函数を弄れるかどうか

 今この瞬間の「私」を大事だと考える人は微分的思考に則り、積み重ねによる「人生」を大事だと考える人は積分的思考に従って行動するのでしょう。どちらが正しいというわけでもなく、まさしく切り取り方、数学的処理の仕方が違うというだけのことです。

 むしろ課題となるのはこの函数をどう取り扱えばいいのかです。微積分によって現れる「私」や「人生」は出力の結果に過ぎず、環境変数に依存するだけで函数そのものを変えることはできないと考えるか、今この瞬間の「私」の意思や気持ちによって函数そのものの定数を書き換えることができると考えるのか。

 前者は悲観主義的ではありますが、自分を許し、水のように環境から受ける影響へ自らを合わせることができるという達観に至る思想です。

 後者は楽観主義的ではありますが、自分を高め、自らの意思で人生の出力を変えることができるという希望に至る思想です。

 やはりこれもどちらが正しいという結論は出せそうにないです。最終的には好みの範疇でしょう。「私」という函数をどう取り扱うか、それこそが人の生き様を決めるのかもしれません。