忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「どう意見が変わったか」ではなく「どう意見を変えたか」を重視したい

 意見の一貫性は時に強く重視されるものです。同じ意見をぶれずに首尾一貫して続けることはその意見や発信者の説得力に繋がります。

 だからこそ何かしらを発信する人は、過去の発言が現在と整合が取れており変化していないことが良いとされます。

 

 ただ難しいのは、意見がまったく変わらなければいいかと言えば、そうとは限らないことです。

 自身の意見に誤りが認められた場合でも頑なに意見を固持するような態度は、確かにそれもまた意志の強さの表れではありますが、それは頑迷固陋との誹りを受けるやもしれません。

 頑固さは時に誇り高い矜持を持った高潔さを示し、時に融通の利かない無粋と成り果てる、大変に取り扱いの難しいものだと思います。

 

意見を変えること自体は必要

 人は必ず間違えますし、歳月を経て様々な経験をするうちに考えも変わっていくものです。立場によっては求められる責務に応じて意見を変えなければならない時もあります。人の一生という長い幅で見れば意見はコロコロと変わるものですし、またそうでなければならないでしょう。

 例えば親になった人が子どもと同じ発想では困りますし、管理職になった人が部下と同じ思考では仕事になりません。極論ですが、小学生の頃から変わらない意見を持っている人がいれば、それはまあ確かに意志が強いと言えば強いのかもしれませんが、ただ幼いまま成長していないだけ、とも取れます。

 つまり首尾一貫して意見の整合性を保つことが望まれるのは所定の期間に限られるものです。

 

 残念ながらメディアやSNSでは著名人や公人の過去の発言を持ち出し、人を変節漢として叩くことが一種のニュースバリューを持っています。

「あいつは今はこんなことを言っているが、昔はこんなことを言っていたじゃないか」

といった類のものです。

 今一番良い事例となるのは新しくイギリスの首相となったエリザベス・トラス首相でしょうか。ブレグジットに当初は反対していたのに後になって意見を変えて賛成したことを筆頭に、ニュースでは彼女の様々な意見の変化を取り上げて、良い言葉では「器用な立ち回り」、厳しい表現では「日和見主義」という言葉で批判されています。

 

 ただ、前述したように意見が変わらなければいいというわけではなく、むしろ人が意見を変えることは必要です。

 例としてあげたトラス首相は教育・環境・貿易・外務など様々な閣僚ポストを経験しています。その職の責務として、それぞれの立場で重視する発言が異なるのは当然のことです。

 必要なのはその職責を担っている所定の期間での一貫性であり、環境大臣時代と貿易大臣時代で同じことを言うような一貫性は不要でしょう。環境大臣は目先の利益よりも環境保全を語ることが仕事であり、貿易大臣は自国の貿易利益が最大化されるような意見を持つことが仕事なのですから。

 つまりは単純に、「昔はこのように言っていたが、当時とは周囲の状況や環境が変わり、立場も違うため意見が変わった」というだけの話であって、立場や時期によって意見が違うことを批判する意味は無いと考えます。

 

 むしろ意志決定者や責任者が状況や立場の変化に追従せず自身のイデオロギーのみで突き進もうとすることのほうがよっぽど問題です。

 貿易大臣は自国の利益を考え、環境大臣は環境保全を考える。そこで政治的な折衝を行い、環境が最大限保全されつつもちゃんと利益が出る落としどころを探す、それぞれの立場の利害を主張しそれを調整するのが政治であって、貿易大臣が「環境が最優先であり我が国は貿易赤字を大幅に拡大して国内の失業者を増やしてでも途上国に技術を放出する」なんて言い出したら困るわけです。

 

どう意見を変えたか

 また、彼女は自身が意見を変えたことに対して、例としてブレグジットに反対していた意見を翻した際は「私は間違っていたし、間違っていたと認める用意がある」と述べています。意見の内容は人それぞれ異なる感想があると思いますが、この姿勢はとても素晴らしいと考えます。

 

 人は過去の意見と現在の意見が変わったことを指摘された場合、知らない振りをするか、受容して訂正するかの二通りを取るでしょう。

 まるで過去に発言したことを無かったかのように無視する態度は、一貫性云々ではなく単純に信憑性という点で説得力を失うものです。

 対して過去の自らの発言を受け止め自身の誤りや状況の変化によるものであることを明確に述べることは、意見に一貫性は無くとも姿勢に一貫性がある点で信用に値するものだと考えます。

 つまり、人の意見は否応なく変わるものである以上、「どう意見が変わったか」ではなく「どう意見を変えたか」を私は重視したいです。

 

 

余談

 もちろん変節の内容次第ではあります。意見の変化が伴おうとそうでなかろうと、姿勢が変わることは批判の対象となり得ます。

 例えば世のため人のため公僕になると努めていた政治家が権力に溺れて自己の利益拡大に目的がすり替わるようなことがあれば、それはまあ、批判されないほうがおかしいです。