忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

書いている内容が変わらないことの意味

 この駄ブログは執筆当時に考えていた思索や考えを記録しておく備忘録的役割を持っているため、自分で書いた古い記事を時々読み返しています。

 古い記事を読んでみると、そこまで書いている内容の傾向や意見は変わっていないようです。少なくとも今現在の私が読んでも内容に違和感は無く、概ね同意見となります。書いた本人が同意見というのもまた変な話ではありますが、書いた時の心境は記憶していない忘れん坊のため、もはや他人が書いた文章のようなものです。

 まあ、つまり、今書いているものと昔書いたものの間で、内容に多少の一貫性は取れていると思われます。

 

 これは危機的とまでは言わないですが、少し注意が必要な事態です。

 

変化と成長の近似性

 政治家や活動家のような方々を代表例として、人は過去の発言と現在の発言の一貫性を大なり小なり好みます。それは昨日と今日で言っていることがコロコロ変わるようでは発言の信憑性を疑われて信頼を損ねる可能性があるからでしょう。

 意見の不変性は信頼の醸成に資するものです。信頼が目には見えないけれども明確な社会的資産である以上、人は自身の信頼が目減りすることを避けたいと望みます。

 

 しかし意見の変化が無いということは、多少穿った表現となりますが、それは成長していないと言うことも可能かもしれません。

 成長とはすなわち変化であり、過去よりも今のほうがポジティブな方向へ変化しているからこそ成長と言うのであって、変わっていないことは成長していないことに近似しかねない、ということです。

 

 もちろん意見が変わらないことが必ずしも成長していないとイコールではありません。意見の変化には2種類あり、一つは向きが変わるもの、もう一つは大きさが変わるものです。幾何ベクトルのようなものと考えれば分かりやすいかと思います。

向きが変わる

 

大きさが変わる

 

 意見が変わると言えばどうしても前者の向きが変わることに気を取られがちですが、過去の意見に対して論理的な裏付けが補強されていたり、より洗練されていたり、具体的な根拠を伴うようになっていたり、そういった積み増し方向であってもそれは意見の変化の一種です。

 意見の向きが変わることは変節だと取られて信頼を損ねることがあるでしょうが、意見の大きさが変わることは説得力を増し信頼を得るために役立つでしょう。

 よって「意見が変わることは悪いこと」は必ずしも真ではなく、意見の大きさが変わることは立派に成長していると言えます。

 

二律背反

 では意見の向きが変わることは必ず悪かと言えば、それもまた極論になってしまいます。

 もちろん「意見の向きを変えるべきではない」という命題自体は真です。朝令暮改で発言が変わるような人の言葉に信を置けないのは当然のことであり、首尾一貫した思考を持つのは良いことです。

 

 しかし「意見の向きを変えるべきだ」という反命題も成り立ち得ることを留意する必要もあります。意見は必ずしも正しいものではない以上、間違いや誤解があった場合はそれを訂正し、より良い方向へと意見を指向しなければなりません。

 自らの誤りを知りつつもそれを貫き通すのは誠実な態度とは言えず、ただ頑迷固陋なだけです。

 

 よって人はこの変化への是非、信頼と誠実の二律背反に対して適切なバランスを保つ必要があります。意見を常に育て、能う限り曲げず、しかし必要に応じて誤りを認めて正す、それこそが賢人のあるべき姿かと考えます。

 

結言

 この駄ブログにおいても、できる範囲で首尾一貫した意見を記するよう努力してはいますが、時に意見を翻し異なる見解へと訂正することが今後あるやもしれません。

 それを成熟と取るか変節と取るかは受け手次第ではありますが、成長の証と見られるよう、できる限り真摯に努力する次第です。

 

 

余談

 どうでもいい話ですが、ベクトルを矢印の幾何ベクトルだけで教える高校数学はどうなのかしらと思うこともしばしば。まあ、分かりやすいけども。

 こう、後々に「行列もベクトルだぞ?関数もベクトルだぞ?」と後出しで教えるのはズルいような。まあ、学校の勉強なんてどれもそんなものですけども。