忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

ブログの書き方、向き合い方

 年末年始はなんだかんだと忙しく、ブログを書く時間をあまり取れません。

 連休前には時間が無いことを見越していくらかのストック記事を一応は用意しておくのですが、今年は年末の時点でストックが無くなってしまいました。

 よってここ数日の記事は思考駄々洩れの即席文章、インスタントに思い付くままの文章となってしまっています。

 

 そしてこの記事をアップロードするのは年末年始の連休中、正月三が日の三日目。

 つまりこの記事もそんな感じです。

 

ブログのネタ出し

 思考の棚卸しがてら、年始のうちに一度くらいブログの話をしたかったので、ブログの話をしましょう。

 今回はブログを書いている私の頭の中を覗いてみることとします。

 

 この駄ブログは全体で一貫したテーマもなく、思い付くまま個人の思索を書き綴り垂れ流しているだけの純雑記ブログです。いや、純なのか雑なのか意味が分からないですが・・・まあ、そういう形です。

 内容の質はともかく毎日投稿をしています、ですがネタ切れの心配は基本的にしていません。無心になるのが苦手で考え事をするのが好きな性格をしているため、毎日言語化したい事象が見つかるためです。

 

 余談ですが、私がどれだけ無心になるのが苦手か、唐突にその例を上げてみましょう。

 私は製造業に勤めているのですが、入社してしばらくは製造ラインでの現場研修がありました。そこではひたすら単純作業をすることになるのですが、あまりの単純作業の連続に脳が耐え切れず製造ラインで立ちながら爆睡して怒られたことがある、その程度に無心になるのが苦手です。

 無心の単純作業が本当に向いていないのです。製造部署からは「お前は絶対にいらない」とお墨付きをもらったレベルです。

 逆に不定形問題に対して頭を使うのは好きで得意で趣味なので、そっち方面で仕事をさせてもらっています。

 

 私はそんな人間ですので、例えば新聞をざっと読めば二桁は書きたい雑念が思い浮かびます。むしろ記事一つ一つに対して数個程度は何かしらの意見を言いたくなりますし、Webニュースやコラムを読めば一つ一つに意見を述べたくなります。

 とはいえ当然それらが全て人様に開示できるほど意味のある意見ではありません

 よって意見の取捨選択を行い、自身の信念や思想に沿っているか、意見の奇抜性・新規性はあるか、他者に不快感を与えないか、攻撃性は低いか、そういったいくつかの個人的な基準で選別します。

 そうして数個の意見を残した後、思索をメタ化した後に言語化します。つまり、具体的な事象を直接取り扱うのではなく、少し抽象度を高めて汎用的な事柄に落とし込んで整理します。

 もちろん取り扱うテーマによっては具体的な事柄を用いなければ意味が伝わらないこともあるため、そのような場合は直接的に言及しますが、可能な限り具体的な部分は削ぎ落すようにしています。

 

メタ化の目的

 これは意見のフォーカスが具体的な事象そのものに集中することを避けるためです。

 例えば時事問題を取り扱う時でも、私が述べたいのはその問題への糾弾や誰かしらへの批難ではなく、なぜその問題が起きたか、その背景はどうであって、どうすれば改善できるか、そういった別のレイヤーを語りたいため、なるべく具体的な事象から要素部分を抽出するよう努力しています。

 

 また、人は必ずしも一貫性を持った思考ができるわけではないと考えていることも理由の一つです。

 相当な注意をしない限り、愛着の感情、人の情、すなわち身内びいきや好悪に引き摺られてダブルスタンダードな思考を誰だってしてしまいます。

 「この人は駄目だけどあの人なら良い」

 「あの団体は嫌いだからその意見にも同意しないけど、同じ意見でもこっちの団体が言っているのであれば同意する」

 そういった愛着による二重規範はなんとも仕方がないことです。これは良い面を見れば人の情そのものであり、それを管理又は排除するのは難しいでしょう。

 

 しかしながら私が頻繁に取り上げる政治や社会問題といったテーマにおいてはそれが必要だと考えています。これらは人の情が強く働く分野であり、それによって分断や拒絶が起きやすいためです。特に政治は分かりやすく、思想や立場によってそもそも異なる立場の意見を聞くことすら拒絶するようなことが起こり得ます。

 よってそういった事態を避けるため、具体的な部分を除去し、物事の本質要素の部分を抽出してメタ化する、そのように努めています。そうすれば愛着の部分を脇に置いてどの立場の人にも言いたいことを伝えられる、私はそう考えています。

 

 さらに言えば、私は人の愛着を否定したいわけではありません。人にはそれぞれ好き嫌いがあり、それは他者が否定して良いものではないでしょう。

 だからこそ具体的な名詞はなるべく取り上げません。「誰が何を言ったか」とは取り上げず、「このような意見を見かけた」と抽象化した部分だけを言及するようにしています。

 

結言

 もちろんブログのアクセス数を増やしたいのであれば、抽象化などせず具体例そのものを取り扱ったほうが良いとは思います。そのほうが検索で引っ掛かりやすいですし、読んでいる人もイメージが沸きやすいでしょう。メタ的な書き方は決して万人におススメできる方法とは言えません。

 まあ、これは単純に好みの問題です。誰かが好きかもしれないものをああだこうだ言うのはあまり私の好みではない、恐らくはただそれだけの話です。

 

 

余談

 一例として、以下の記事はヴィーガニズム(完全菜食主義)に関する誰かのツイートを見かけての思索をまとめたものです。

 そのツイートの意見にはあまり同意できなかったのですが、ツイートそのものを取り上げて批難したいわけでもなく、またテクスチャーとしてヴィーガニズムをそのまま用いると読む側も書く側もそれ自体への好き嫌いが影響してしまうと考えるため、意見の内容そのものではなく社会正義全般についてメタ化して語っています。