忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

情報の独占と伝搬:情報価値の変化に関する考察

 情報は人にあげても質的には減らないが、価値は減る。

 では、減る価値の量はどの程度でしょう?

 

人はどれだけ無知か

 私たち個人個人は世界や物事をどれだけ知っていると言えるでしょうか。

 たとえば1%、まさかそんなに知っているわけも無さそうです。古代の知の巨人であるプラトンやアリストテレスですら現代の学問分野の1%だって理解していなかったでしょう。

 たとえば1‰1‱、もちろんそれですら多すぎるでしょう。そもそも‰(パーミル)や‱(パーミリアド)という単位だって日常ではあまり使用されないもので知らない人のほうが多いくらいです。

 そして私たちが日常見聞きできるものというのは極めて僅少な範囲に過ぎません。どれだけ情報が流通していようが個々人が取り扱える情報量には限界があります。もちろんその流通している情報自体がどの程度世界や物事を詳述できているかと言えば、やはりそれもまた僅かな範囲に過ぎないでしょう。

 ppmppbppt、小さい比率を表す単位は様々ありますが、それですら私たち個人個人が理解していることを表すには単位が大きすぎると言えます。

 1万人の知人が居たとしても、それは人類の1.25ppmに過ぎません。そしてそもそも私たちは知人のことをどこまで深く理解できているのでしょう?

 自身が今住んでいるところは100年前はどんなところだったか?500年前は?1000年前は?1万年前は?もっともっと前は?逆に100年後は?1000年後は?今現在に限らず膨大な過去と遠大な未来について考え始めれば気が遠くなるほど莫大な情報量が存在しています。

 

 畢竟、私たち個々人が持っている世界への情報や物事への理解とは極めて微小なものなのでしょう。

 

情報を貯め込む時代は終わりつつある

 個人が持っている情報量は極めて少ないものです。

 しかしだからこそ、得た情報を他者に伝搬し流通させることには意味があると考えています。

 

 古代から近現代において、情報は独占してこそ価値を産むものでした。

 それは商機であり、利益であり、資産でした。

 古来より権力者や強者が最も独占していたのは富でも土地でもなく情報です。土木・農業・金融・軍事、そういった有益な情報を独占していたからこその民衆支配であり、権力です。

 

 しかし、現代において情報を独占することの優位性は徐々に矮小化しつつあります。一部の情報は今なお独占されていますが、情報伝搬速度の進歩と社会規模の大型化に伴い情報の独占自体が困難になりつつあり、この傾向は今後も続いていくことでしょう。

 情報の独占による価値上昇は相対的なもので、流通する情報量が増えれば増えるほど独占が困難になるのと同時に、その価値上昇も小さなものとなります。

 

 これは金融資産にも似ています。お金は動かさなければ金利で少しずつ価値を高めますが、それよりも動かして投資をしたほうが大きな利益を生みます。

 情報も同様に、仕舞い込んで独占するよりも動かして新たな情報を獲得するほうが大きな利益となる時代へ変化しつつあります。

 つまり、情報は独占すると価値が上がりますが、その価値変化量は相対的に小さなものへと変わりつつあると言えそうです

 

益の総量を増やす

 よって今後重要になるのは、意味を失いつつある情報の独占ではなく、過剰な情報から自身の役に立つ情報を獲得する技術でしょう。

 私たち個々人が持っている情報は僅かしかありません。その情報にどの程度の価値があるかも分からないことがままあるでしょう。なにせ私たちの持っている情報は、情報の全体像が分からない以上、どの程度価値があるのかすら判断が付かないものです。

 そのような情報を後生大事に抱え込んで価値上昇を狙うくらいであれば、むしろその情報を伝搬させて、逆に伝搬されている情報を積極的に取り込んでいく。そうやって情報を皆で動かしたほうがよっぽど価値が高まることでしょう。

 

 金融資産と情報の異なる点は、情報は人に伝搬しても質的には減らないことです。

 そして価値的な変化量が微小化しつつある現代であれば、むしろ積極的に伝搬させ合ったほうが総体として情報の価値が高まることになります。個々人にとっても全体にとっても利得となり得るのですから、個人が持っている僅かな情報を積極的に伝搬することには大きな意味があると、そう考える次第です。

 

結言

 私は知らないことを知りたいし、知っていることを伝えたいです。そのほうが誰かの情報を私が役立てられるかもしれませんし、私の持っている大したことない情報でも誰かの役に立つかもしれません。

 それに、そうやって与え与えられるほうが、世の中面白くなると思うのです。

 

 

余談

 記事テーマを考えた時に予定していた結論から大きく逸れたどころか、全体としてまったく予定外の文章になりました。どうも何が言いたいのかまとまっていない記事になりましたが、まあ、たまにはこういう想定外も面白いかもしれません。