忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

綺麗な資料を作るのは面倒くさい・・・けれども

[若手営業]

「顧客向けのプレゼン資料を作ったのですが、どうにも技術的で難しい内容が多々あって自信がないので、内容を確認してもらえますか?」

[中堅技術者]

「いいよ、どれどれ・・・ごめん、技術的な部分は色々と手直ししてあげるけど、この資料はそれ以前だよ。レイアウトは統一されていないし、文字フォントも文字サイズもバラバラ。見出しの連番間違いはさすがに酷い。内容よりも先にプレゼン資料の作り方を先輩や上司に教わったほうがいいと思う」

 

資料の体裁は"当たり前品質"

 作成した資料の体裁を整えることは付加価値があるわけでもなく、企業人にとって面倒な仕事の一つです。

「資料は内容が重要であり、どれだけ丁寧に作ったかどうかは重要じゃない」

「体裁を整える時間はムダ、別の生産的な仕事に回した方がマシ」

そう思うことは仕方がないでしょう。

 

 ただ、それが許容されるのは内容だけが問われる状況のみです。

 例えばチームや所属内での情報伝達用の資料、関係者だけ理解すればいい身内用の資料、内容の伝達が最優先される突発性や揮発性の高い資料、そういった類のものであれば場合によっては体裁が整っていないことを許容されます。その許容度はメンバーや状況次第ですので、その度合いを見極めて適宜調整すればよいです。

 しかし、少なくとも営業マンが顧客に提供するプレゼンの資料は出来る限り綺麗であったほうが望ましいと言えます。何故ならば、プレゼン資料の体裁は当たり前品質だからです。

 

 当たり前品質とは、あって当然で、無ければ不満を生む品質です。車であれば走る、エアコンであれば部屋の温度を変えるなど、充足していても加点されないが充足していなければ減点される特性を指します。

 プレゼン資料の体裁も同様に、整っていて当然、綺麗であって当然で、加点要素にはなりませんが、整っていなければ減点されます。

 

大企業・海外企業を参考に

 資料の体裁は大企業であればあるほど当たり前に整えています。

 これを「形にこだわる非生産的な大企業病だ」と揶揄することは可能ですが、大企業からすれば逆説的に「資料の体裁すら整えていない品質管理レベルの会社とは商売したくない」と思われかねないことを留意しなければなりません。

 私であれば綺麗に作られていないプレゼン資料を他社の営業マンが持ってきたら、どれだけ熱心に説明されても5分も待たずして内心で切ります。そんな程度の品質管理レベルの会社からは部品や製品を買うことなんて怖くてできません。

 資料の体裁程度で大げさな、と思うかもしれませんが、当たり前品質には顧客が不満やクレームを口にせず黙って立ち去ってしまう怖さがあります。だからこそ当たり前品質は多少過敏な程度に気にする必要があります。

 

 ちなみにこれは日本の大企業の悪習というわけでもなく、むしろ海外のほうがデザイン性が高く見やすいように体裁を整えた綺麗な資料を作ることに熱心です。外国の方が作るスマートでお洒落な資料はある種の感動すら覚えます。それに比べると日本人が作りがちな文字ばかりの資料は少し野暮ったく感じるほどです。

 

結言

 資料の体裁は一元的品質(あると加点、無いと減点)や魅力的品質(あると加点、無くても減点はされない)にはなり得ない以上、資料の体裁作りへ無制限に時間を掛けていいと言いたいわけではありません。豪奢な資料を作ったとしても加点にはならないのですから、むしろ減点されない程度に望ましいデザインを短い時間で作ることが理想形です。

 それこそ多種多様なフォントを組み合わせたり、カラフルに色を使い分けたり、アニメーションでぐりぐり動かしたり、余白が無くなるほど情報を詰め込んだり、そういった労力は不要です。

 

 過剰に盛る必要はなく、しかし丁寧に手を加えた過不足ない整った状態。

 綺麗な資料の"綺麗"とはそういうことです。

 

 

余談

 特に営業屋や企画屋は資料作りに拘って欲しいものです。私のような技術屋は技術が商売道具ですが、彼らは資料こそが商売道具の一つなのですから。