忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

人見知り(自己申告)の言い分

 先日、来日したアメリカ現地法人の営業マンを歓迎するための英語縛りの親睦会に参加してきました。

 他部門からは管理職がぞろぞろと参列する中、うちの部門は下っ端の私一人でした。部門内で色々な人を誘ったのに「いや、英語はちょっと・・・」と全員及び腰で、私一人になりました。言語、組織、階級、あらゆる方面でアウェイ過ぎます。

 初対面やほぼ交流が無い人ばかりの中で、そのうえ英語でのコミュニケーションとなると、人見知り的には地獄でしょう。

 

 ちなみに、凄く楽しかったです。

 

不安を感じることと、不安に支配されることの違い

 私は人見知りです。

 と主張すると、ほぼ全ての知人から「お前はまったく人見知りじゃない、知らん奴とも全然話すじゃないか」ときっぱり否定されます。

 よって私は人見知り(自己申告)です。

 

 この認知の差異は『人見知り』という言葉の捉え方の違いによるものだと考えます。

 人見知りとは初対面の人や大勢の人が居る場において不安や緊張を感じる特性であり、別の表現であれば恥ずかしがり屋や内気、英語で言えばシャイネスです。

 そして私は初対面の人と話す際は明確に緊張しますし、大勢の人が居るところは苦手です。

 よって私が自身を人見知りだと主張することは妥当だと判断しています。

 

 確かに初対面の人や大勢の人が居る場においても私はペラペラと喋ります。母親から「あんたは口から先に生まれた」と言われるだけはあります。

 しかし私がそういった状況で不安や緊張を感じていないわけではなく、当然ながら平時以上に強く感じています。

 

 ただ、不安や緊張を感じることと、不安や緊張に支配されることは別だと思うわけです。生き物が本能や特性によって何かしらへ不安や緊張を感じるのはむしろ自然なことであり、それを避けるのではなくどう向き合って乗りこなすかが重要だと考えています。

 そのためには不安や緊張が生じる状況そのものを回避するのではなく、自身が不安や緊張を感じる状況を理解し、不安や緊張を受けつつも行動することで自分なりの付き合い方を模索すること、克服するというよりは自らの支配権を自身でグリップする術を身に付けること、そういった姿勢をもって人見知り(自己申告)と向き合っています。

 だから私は人見知り(自己申告)ではありますが、今回の親睦会のようにむしろ積極的に知らない人との接触を求めていきます。人見知り(自己申告)による対人不安によって私の行動を支配されるのは癪に障るからです。

 感情はオートマチックですが、行動は私のマニュアルです。感情が私の支配者であることを私は望みません。

 

 つまりは、私は物怖じしない性格なのであって、人見知りではあるのです。外から見てその区別が付かないだけで。

 

結言

 もちろん不安や緊張の度合いが強く日常生活や仕事で支障を来たすほどの人に同じ姿勢を取ることは絶対に薦めません。

 ただ、ある程度向き合うだけの余力がある人はあえて積極的に自身の不安や緊張の対象へと対面することもアリだと思っています。

 生きていれば嫌なことや苦手なことが訪れるのは当たり前のことで、それを楽しむことが出来るかどうかは才能か努力が必要だと思う次第です。不安や緊張に日々や人生の指向を定められるのは、なんともイヤじゃないですか。