忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

持続可能な社会のイメージ:永遠性と可変性

 人や組織、物事や社会が落ち目になると世間では栄枯盛衰が謳われます。

 栄枯盛衰とは「繁栄や衰退は繰り返すものである」ことを意味しますが、盛者必衰と混ざってしまいがちなのか、どちらかと言えば落ち目の際に用いられることが多い言葉です。

 

 栄枯盛衰の言葉が示すように、この世とは無常なものです。無常とは”常”が無いこと、すなわち万物は流転し変化する理を意味します。

 それは形あるものが崩れていく虚しさと同時に、崩れたものでもいずれはまた興り得る希望をも内包する東洋的な考え方です。本来的に栄枯盛衰や無常は必ずしもネガティブなことではなく、桜が散ることを名残惜しむもその心残りこそを風情とする日本人には理解が容易な概念かと思います。

 

不変か、可変か

 昨今、というほど昨今でもありませんが、SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)によって提唱される持続可能な社会は、人々の中でどのようなイメージでしょうか。

 多くの場合で、持続可能な社会は円環状の循環システムとして描かれています。もう少し抽象的に表現すれば、系単独での完成、永遠性を持った独立系を喚起させる印象です。

 つまり、持続可能な社会の印象とは固体的なものであることが多いでしょう。それが完成すればその系単独で物事が完結し、系内部での循環によって永遠に繁栄が継続していく、そのようなシステムがイメージされていそうです。

 

 ただ、熱力学的見地からすれば、そのようなシステムは存在し得ません。エントロピーは増大して、循環するに従って高エントロピーな老廃物が積もっていきます。単独の系による持続可能な循環システムは永久機関に近似するものであり、それは熱力学の法則に反する幻想です。

 力学的に持続可能な社会とは、不安定で、外部の系と影響し合う可変性を持った系です。

 生物を例にすると分かりやすく、私たち生物は変化を繰り返しつつ外部とエネルギーのやり取りをすることで持続しています。内部の高エントロピーを外部へ放出し低エントロピーを取り込むこと、現状を維持するのではなく必要に応じて変わっていくこと、すなわち変化への適応が不可欠であり、安定した永遠性ではなく不安定な可変性こそが必要です。固体ではなく液体のような特性を持った社会こそが持続可能な社会の名に値します。

 

結言

 このような視点からすると、多少過言ではありますが、人類の社会はすでに持続可能な社会だと言えるかもしれません

 なにせ人類の社会は様々な変化に適応し対応することで持続してきた実績を持っています。産業革命による森林資源の枯渇は石炭へ、石炭による大気汚染は石油へ、そして石油の枯渇に対してはまた新たなエネルギー源への移行途上です。必要に応じて変化することで持続してきた結果であり、まさしく持続可能な社会の一形態と言えます。そういった可変性を評価せずに現状での永遠性を保とうとすれば、当然のように資源を食い潰して文明は崩壊することでしょう。

 以上より、生物と同様に社会も「適応」と「変化」こそが持続の鍵であり、それが出来る社会こそが持続可能な社会だと考えます。