洗車した 次の日鳥の フンぴしゃり
まあ、仕方がないことです。稀にあります。
感情的徒労の悪循環
洗車したばかりのピカピカの車に鳥のフンが付着していた場合、人はどう感じるか。
そこそこ以上にどうでもいい話ではありますが、ちょっとした思索の一助にはなるかと思います。こんな日常的などうでもいいことからも何らかの思索をしてしまうのが私のある種の強みであり、それなりに弱みです。そしてただの趣味であり遊びです。
私の考え方からすれば、ここで苛立ったり怒ったりすることは意味が無いと感じます。これはただのよくある仕方がないことの一つです。鳥さんに罪はありませんし、私にも罪はありません。
確かに自身の労力が無為になることは失望や徒労感から苛立ちと怒りを引き起こすトリガーになり得ます。物事が思い通りにならないことは人の感情を逆撫でするものです。ただ、鳥のフンが車に落ちることなんて確率的には充分起こり得ることですし、これはまさしく自然現象です。自然現象の権化である鳥さんの振る舞いや、大袈裟な表現ですが自然現象に晒された自身の境遇に対して苛立ちや怒りを覚えようが覚えまいが、汚れた車という目の前の状況は一切変わりません。
ここで徒労感から苛立ちや怒りを覚えたとしても事態の解決には役立たないため徒労に終わります。徒労に対して苛立ちや怒りを覚える人は感情の徒労にも苛立ちや怒りを覚えてしまうため、苛立ちが苛立ちを呼び、怒りがさらなる怒りを生む、苛立ちと怒りのデフレスパイラルに陥って長々と感情的徒労を続けることになりかねません。それは避けたほうが気楽だと思います。
ストレスへの対処法には2種類ある
苛立ちや怒りを抑えるなんて心や感情が無いのか、と思われそうですが、「仕方がない」と現状を受け止めて感情のトリガーを引かないのは心や感情が無いからではなく、心や感情の徒労を避けたいという心や感情があるからこそです。
ストレス反応を起こす外部環境からの刺激をストレッサーと呼びます。ストレスを避けるためにはこのストレッサーから距離を置くことが推奨されますが、それは難しいことも多々あります。むしろ距離を置くことが簡単にできないからこそのストレッサーです。
その際は外部ではなく内部、ストレッサーではなく自身、つまり自らのストレス反応を鈍らせることも一つの対処法です。ストレッサーが存在していても、それに精神が感応しなければストレスではないのですから、気にすらしないことは最高効率の防衛策です。
まあ、これは修行や訓練が必要なやり方なので万人に推奨できるものではありませんが、一つの手段として留意しておくと役立つかもしれません。
宗教的観点
話はさらに飛躍し、洗車したばかりのピカピカの車に鳥のフンが付着していた場合、宗教的にはこのような事態がどう扱われるか、適当に整理してみましょう。
キリスト「神の試練だ、受け入れたまえ」
アッラー「神の思し召しだぞ、受け入れなさい」
シッダールタ「あんま気にすんなよ、世の中そんなもんだ」
大体こんな感じでしょうか。
メジャーな宗教ではメンタルケアの観点がちゃんと考えられており、ストレッサーである自然現象への対処ではなくストレス反応自体の抑制を推奨しています。ストレスをそもそも感じなければいい、そんな視点は遥か昔から語られていたということです。
別に宗教に染まる必要は一切ありませんが、宗教的な考え方を理解して日常に流用することは案外役立ちますよ、伊達に世界中で流行しているわけではありませんよ、という話です。
ちなみに、ストレス対処を考慮していないパターン、例えば「それは貴方の前世がー!」とか「貴方の日頃の行いがー!」とか「これを買えば幸運がー!」とか言い出す宗教家はモノの役に立たない詐欺師なので、避けましょう。救いの足しにすらならない宗教には何の価値もありません。
結言
鳥のフンから宗教観まで思考が飛びましたが、洗車した次の日に鳥のフンが付いていた、ただそれだけの話です。