忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

故郷の景色は変わったようで変わっていない

 帰省中のある日、目的地に駐車場が無かったために親族を車で送り届けた後に用事が済んだら迎えに行くまでの間、適当に時間を潰す必要ができた。

 せっかくなので、地元を少しドライブすることにする。自動車免許を取得したのは地元から離れた後であり、ほとんど地元の道を車で走ったことはないのでちょうどいい機会だろう。

 高校を卒業するまで暮らしていた街はそこそこに栄えた地方都市であり、当然都市開発も進められている。新しく作られた店舗もあれば、いつの間にやら高層ビルも増えている。その逆に、よく通っていた店が潰れていたり、改装されていたりもする。

 様々な変化が観測される以上、多少なりとも様変わりしたように見えるような気がした。

 

故郷の景色は変わらない

 ただ、正確に言えば、様相に大きな変化は無いとも感じた。

 確かに見える景色はそこそこに変わっている。

 しかし空気感は何も変わっていない。事物を目視で観察する際には必ず空気をフィルターとして通さなければならない以上、空気感が変わっていないことが景色の変化度合いを漸減しているように感じた。

 都会のような喧騒は無く、しかし田舎町ほどの閑散も無い、順当な立ち位置の地方都市。大都会のような予算が無いために大掛かりな都市開発は行われず、しかし都心から遠く離れた地方のように後から計画立てて発展させた地方都市とも異なる、雑然とした区画や曲がりくねった道が生み出す独特の霞んだ空気。人々の積み上げてきた名残りが色濃く残るモザイクめいた都市の様相。

 実のところ、本質的な部分は何も変わっていないのだろう。都会のような素早さも田舎のような静けさもないこの都市の緩慢な空気は、止まっているわけではない感覚と止まっているかのような感覚の双方を同時にもたらしている。決して後ろ向きなものではなく、しかし同時に前向きなものでもない。

 やはり、なんとも霞めいてぼやけている。だからこそ、景色の変化を変化だとはあまり感じられない。

 

 別に私はこの街が嫌いだから離れたわけでもなく、就職先の都合で別の街に住んでいるだけであり、この空気は好きでも嫌いでもない。ただ、懐かしくは思う。

 それは良し悪しで語ることではないと思っている。故郷が恋しい人もいれば、故郷を嫌う人もいる。それが良し悪しではない以上、故郷へ何を思うかは善悪で括る必要は一切ないと、そう思っている。

 

私は変わった

 故郷の景色はさほど変化していないと感じたが、しかし最初に感じた変化はどこから来たのかと考えれば違いが一つある。

 それは単純に、子どもの頃とは異なり私が車に乗っているからだと思われる。自転車に乗って見る景色と車に乗って見る景色は当然ながらまったく様相が異なるものだ。かつては何十分も掛けて行ったところも車であれば数分で着く。その時空間の差はとても大きい。車に乗って移動すると世界が狭くなるのだ。それは良い面もあるが、恐らくは悪い面も持っていると思う。あの頃に感じていた世界の広さを今の私は損ねてしまったのだから。

 何はともあれ、故郷は変わらず、しかし私は変わった、ただそれだけのことなのだろう。

 

 

余談

 ついでとばかりに、学生時代頻繁に通っていた図書館に行ってみた。

 その辺りでは比較的大きな図書館だ。

 

 中学生の頃は世界の知識の全てがそこにあるような広大さを感じた。

 今、この歳になって見てみると、あの頃に感じていた広さはまったく感じなかった。蔵書の種類も量も今の私には不十分だったし、当時感じていたほどに館内は広くなく、むしろ手狭に感じた。

 しかし、実際には当時よりも僅かに書架のスペースは広げられており、決して狭くなったわけではない。

 つまり結局は観測機である私が変わっただけの、それだけの話である。

 やはり良し悪しで語ることではない。ただ、それだけの話である。