忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

ブログを継続する上では健康も大切

 ブログに関する雑談。

 

恐れるべきは・・・

 ブログ運営を継続できなくなる理由はネタ切れやモチベーション低下など人それぞれ様々あるでしょう。

 この駄ブログは完全なまでのフリースタイルでどのような記事でも思い付くまま自由に作成しているためネタ切れの心配はしておらず、収益化も端から手を出していない程度に雑な運営をしておりモチベーションにも依存していないため、ネタ切れやモチベーション低下による更新停止はまず考えにくくあります。

 もちろん人生何があるか分かりませんので事故や事件で物理的に継続できなくことはあり得るでしょうが、今のところ外的要因以外でブログ更新ができなくなるような事態には概ね至らないです。

 

 概ねと書いたのは、一つだけ内的要因による心配事があるためです。

 それは肉体の強さです。

 

 幸いなことに大病を患うことはほぼ無く日々を平穏無事に生活していますが、残念なことに季節の変わり目にはとても弱く、容易に軽く体調を崩します。年に4回くらいはほぼ確実です。

 温暖差に弱いんですよね、恐らく。自律神経系が軟弱過ぎてイカれてしまうのか、日々の温暖差が大きいと発熱や頭痛などが生じて数日程度寝込むことになります。熱衝撃(ヒートショック)に弱い性質です。まあ衣替えが下手という意味の分からない性格も相まっているのでしょうが。

 肉体は温暖差に敏感で、思考は温暖差に鈍感で、もうどうしようもない話です。手のつけようが無いおバカさんなので諦め気味です。

 

 暑い時期に雨なんか降ると、もう一発で参ってしまう軟弱さ。

 

とりあえず更新はする

 寝込んでいる間は下書きに保存してある記事を投稿するのですが、在庫が切れた場合は起きてざっと記事を書いてまた寝ます。今この瞬間の私のように。

 

 なんで起きて記事を書くんだ?という疑問はもっともです。

 書いている私も疑問に思っていますので。

 

 習慣の力って怖いですよね。

 

伝統になぜ価値があるか

 ポケっとした頭で余計な話でもしましょう。

 お題は「伝統にはなぜ価値があるか」です。

 

 ブログを継続している、例えばうちの駄ブログのように毎日更新しているとします。

 中身は正直言って大したことの無い雑記ブログです。

 そのようなブログに対しては次のような意見が出るかと思います。

 

 一つは「継続していることは凄いことだ」

 もう一つは「継続していること自体は凄いことではない、重要なのはアクセス数や収益といった質の部分だ」

 

 実のところ、これは伝統とまったく同じ構造です。

 建築物や祭り、芸能や文化など、伝統と一括りにするにはその内訳は様々ですが、それらは全て長く続いているから伝統と呼ばれます。

 よって伝統に価値を見出す人と伝統の価値を認めない人はまさにこの点、長く続いていること自体に価値を見出すかどうかが区切りです。伝統の中身は実のところ関係がありません。

 

 価値は誰かがそれを見出すかどうかで設定されるものであり、長く続いていることに価値を見出す人が伝統の価値を生み出しています。

 世の中では時々、伝統の是非について議論が生じることがありますが、あれは意味が無いです。継続に価値を見出す人からすれば変えることは論外でしかなく、中身に価値を見出す人からすれば変えないで続けることには意味がありませんので、中身どうこうを議論しても平行線になるだけです。

 もちろん社会全体に関わる大きな事柄であればその平行線を無理にでも妥協して何らかの形に落とし込む必要がありますが、そこまで社会全体に関わらない伝統、例えば芸能分野であれば、伝統を重んじる人と重んじない人で議論して妥協点を探るのではなく、端から住み分けてしまうことが一番かと思います。継続に価値を見出すかどうかは個人の価値観に根差した部分であり、擦り合わせることは極めて難しいのですから、そのほうが確実です。

 

「長く続いているからなんだってんだ!?」

「長く続いているからこそ続けるべきだ!」

 

 これを無理に擦り合わせることは、労多くして功少なし、です。

 

結言

 頭が痛いと頭が悪い話しか出来なくなる、と言い訳したいところですが、頭が痛くなくても頭が悪い話ばかりしているので無理筋でした。