政治家や活動家、学者や医者など一部のエリートは世間的な批判を強く受けることがあります。それは強固な社会的属性を持っている人へ対してのルサンチマンや反抗心で説明が可能かもしれませんが、時に批判の声が社会の大部分からあがることもある以上それだけではなく、個人個人の心理と言うよりは社会の仕組みにあると考えます。
個人的な見解ですが、理由の一つに「求められているエリート像」があると考えるため、その理由を整理していきます。
調子に乗ったエリートは叩かれる
エリートが叩かれるのは単純に「出る杭は打たれる」とは限らないものです。大勢から好かれるエリートもいれば社会から尊重されているエリートもいるように、出る杭が必ず打たれるわけではありません。そうであれば”出る杭そのもの”であるエリートはそもそも存在し得ないからです。
もちろん一部の人はルサンチマンによって誰彼構わずエリートを批判的に取り扱いますが、それは世間という広い範囲からの批判はまた異なる次元です。
エリートが世間的な批判を集めるのは、悪い言い方ではありますがエリートが”調子に乗っている”場合です。権力の乱用や不適切な発言など、いい気になって軽率な行いをした際に批判の声が広がります。
調子に乗っている人が批判を集めやすいのは何もエリートに限った話ではないとはいえ、そしてエリートの足を引っ張りたいルサンチマンに引き摺られている人が一定数紛れ込んでいることは事実ですが、エリートはとりわけ批判を集めやすいものです。
それは世間の中に「求められているエリート像」が存在しており、そこから乖離しているからだと考えています。エリートがエリート足る資質を示さない場合、世間一般は批判の声を高めます。
エリートこそ自らを律しなければならない
そもそもエリートとは何かと言えば、エリートの語源は「選ばれた者」であり社会集団において優秀な人に与えられる称号です。エリートとは言わば相対的なものであり、絶対的で固定的なものではありません。エリートとは世間一般による選別であるとの概念が人々に内在化しているからこそ、世襲や階級の特権化のような”選別を伴わないエリート”を世間は好みません。
それはつまり結果ではなく姿勢、エリートだと選ばれたことに意味があるのではなくエリートであろうとする努力と献身に価値があることを意味しています。
よってエリートは選ばれた後であってもそれを怠ってはいけず、むしろ選ばれたからこそ自らがエリートであることを証明し続ける責務と自らをエリートとして律し人々に対して努力と献身を示し続けることが必要です。それができるからこそエリートとして人々の尊重を集めることができるのであり、それを示さないエリートは世間から批判されることになります。
結言
今回はエリートを代表例として述べてきましたが、これは何もエリートに限った話ではありません。選別を伴う関門を突破した人には必ず求められる資質です。試験を合格した結果が立場を保証するのではなく、試験を合格するために示した能力と努力が評価されているのであり、試験後にもその能力と努力を示し続けなければなりません。