「変わらない日常に飽き飽きする」
そんなフレーズをどこかしらで聞いたことがあるかと思います。
ではそのような人が『変わる日常』に満足できるかと言えば、実のところ少し難しいでしょう。
待っていて得られたものに満足できるか
変わらない日常に飽いている人は当然ながら変化を望んでいます。
そして変わらない日常に飽いている人は、その変化が外部から訪れることを期待しています。
何故ならば、変わらない日常を飽くのではなく嫌う人は自ら変化を起こして日常を変えるためです。そうせずに変わらない日常を甘受している人は、自らによって変化することではなく外部要因によって変化することを期待していると断定していいでしょう。
さて、このブログでも度々述べてきたように、人は「やりたいことをやる」よりも「やりたいようにやる」ことに楽しさを見出す生き物です。
読書好きの人が机に縛り付けられて無理やり読書をさせられても楽しめないように、コーヒー好きの人が無理やりコーヒーを口に流し込まれても嬉しくないように、人は「好きなことをやる」よりも「好きにやる」こと、つまりやりたいようにやることこそが面白さを感じることができます。
つまり楽しさを生み出すのは自らの意のままになる状況そのものです。自らの意にそぐわない状況は、たとえそれが好きなことであってもそうそう楽しめるものではありません。
そして「変わらない日常」に飽いて日常を変える何かしらが外部によってもたらされることを待ち望んでいる人に訪れる変化とは、それが外的要因による変化である以上ほぼ大抵の場合で自らの意にそぐわない変化となります。
それを楽しめるかどうかは、まあよほどそれに楽しみを見出せる才能が無ければ苦行に他なりません。
例えば朝令暮改で指示が変わる気分屋で癇癪持ちの上司を持ち、コンプライアンスがガバガバで毎日多種多様なクレームを顧客から受けてあちらこちらに派遣される職場で働いているとして、前動続行を繰り返すわけではないそのような環境は間違いなく「変わる日常」ではありますが、どう考えても面白くはないでしょう。自らの意志が反映できない環境が楽しいはずもありません。
さらに酷い事例として、戦場の前線となってしまい砲弾が降り注ぐ街に住んでいれば日々が「変わる日常」です。そしてそんな変化は御免でしょう。
結言
自らの意に依らず起こる変化は大抵の場合で自らの意にそぐわないものですので、それは面白いことではありません。
つまるところ「変わらない日常」に飽いているのであれば、「変わる日常」を待ち望むのではなく能動的に動いて自らの意のままに日常を「変える」ことが適切です。
率直に言えば、人が面白さを感じるのは「変わらない日常」でも「変わる日常」でも「変える日常」でもなく、「変える行為そのもの」だとすら言えます。たとえ変えた結果が自らの意にそぐわない面白くない結果になってしまったとしても、変える行為そのものは自らの意に沿った行動であり、それに楽しみを見出すことは容易です。
変化する日常を楽しんでいる人は、日常の変化を楽しんでいるのではなく自らが日常を変えていることに楽しみを見出しているものです。