忘れん坊の外部記憶域

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算数で考える『排除の論理』の非合理性

 『排除の論理』は明確な定義のある表現ではありませんが、意見が合わない人を集団から排除したり、異なる意見を持つ人を認めずに争ったり、意見の違いを発端として集団を分裂させたりすることなどを意味する言葉です。

 『排除の論理』を用いる人は政治的な立場に関わらず存在しています。外国人を追放せよと叫ぶ右派団体も、政治思想の違いで分裂する左派団体も、根底は同じです。

 

 たとえ集団の人数が少なくなろうとも構成員を純化することがより良い結果をもたらすと信じている『排除の論理』は、それはそれで一つの理屈ではあります。数の論理が必ずしも勝るとは限りませんので、少数精鋭が適した場合もあるでしょう。

 ただ少なくとも『排除の論理』は若者からの支持をあまり得られないのではないかと思っています。

 それは昨今の若者が闘技的思考を好まない調和的な質であるといった理屈付けも可能ですが、もっと直接的で実感的なものとして、若者は人数の減少に伴う痛みを肌感覚として持っている人が多いためです。

 

 その理屈について個人的な見解を述べていきますが、特に学説があったり学問的な話ではありませんので、まあそんな発想を持っている人もいますよくらいのファジーな感じで捉えてください。

 

一人当たりの負担

 かつては10人で行っていた仕事を、今では5人で行わなければいけない。

 そんな状況はざらにあるように、少子高齢化が進む現代の先進国において人員削減の影響は若者に重く圧し掛かっています。

 もちろん効率化は昔よりも進んでいます。しかし業務の高速化と高度化、短納期化と労働時間短縮圧力は効率化によるプラスを打ち消しており、現場は決して楽にならないどころか疲弊しています。

 

 組織の維持や向上に必要な労力を考えてみましょう。

 漸化式なんて難しげな話はせず、簡単な算数のみで考えます。

 

 例えば100人で100の目標を達成する場合、一人当たり1の成果を出す必要があります。

 これが前年比110%アップなどの目標で110を求められたならば、一人当たり1.1の成果が必要になるでしょう。

 実に簡単な割り算です。目標の変化は比例で計算できるため単純な掛け算です。

 

 ここから人員を削減していった場合どうなるかと言えば、維持に必要な労力は人員削減率の逆数ですので、一人当たりの成果は反比例になります。

 つまり人数が10%減って90人で100の成果を求められれば、それだけで一人当たり1.11(11%アップ)の成果を出さなければ100にはなりません。90人で110であれば一人当たり1.22(22%アップ)です。

 もっと極端に人員が50%削減、目標50%アップとなれば、100を維持するだけでも一人当たり2.0(100%アップ)、150まで成長させるには3.0(200%アップ)が必要になります。

 反比例なのだから当然なのですが、1/2の逆数は2であり、人数を50%削減した場合の忙しさは50%ではなく100%アップします

 目標をX%アップするよりも人をX%削減するほうが一人当たりの負荷に与える影響は大きく、集団の人員が減っていくと一人当たりの負荷は著しく増加していくものです。

 

 つまり、昨今の若者は人の減少による負荷の増加を極めて実感的に感じています。

 なにせ少子高齢化の世の中、職場に同年代は少なく、ベテランは続々と定年退職し、代わりの人員は手配されず、どこもかしこも人手不足です。たとえ成果の量が変わらずとも、それを維持するだけでも今までより大きな負担が掛かっていることは算数をするまでもなく肌で感じています。

 

『排除の論理』は困る

 そんな日々を過ごす人、特に若者からすれば、『排除の論理』は理屈ではなく肌感覚的に好ましくないものだと感じるでしょう。人が減るとそれに反比例して大変になることが分かっているのですから他者を排除している場合ではありませんし、むしろ協力関係を構築して規模を拡大したほうが100倍マシです。

 

 つまり、「多子社会における競争を必然として過ごした人」と「少子高齢化の渦中にいる人」はまったくメンタリティが異なり、後者は出来る限り協業して個々人の負担を圧縮して少しでも余裕を作ることを是と考えています。

 そんな発想を持っている後者の人からすれば『排除の論理』はとても非合理に感じるのではないでしょうか。

 

結言

 まあ若者と一括りにしてしまっては意味のある推論なんてできませんが、今回はファジーな感じで語ってみたかったので、主語大きめで述べてみました。