忘れん坊の外部記憶域

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「敗者は勝者に従う」発想の功罪

 先の戦争における「太平洋戦争」と「大東亜戦争」の呼称について少しネット上で話題になっているようです。

 私はそもそも「大東亜戦争」の呼称を積極的には使わないので論争自体にはそこまで興味がないのですが、言葉の制限や制約は戦時中の「敵性語」と同じメンタリティを感じるため、そういった仕草はあまり好みではありません。

 とはいえそれを好む人もいますのでそこは是々非々だと考えます。

 他者の感情的な側面を慮ることはあって然るべきですし、それは双方向性を持つものです。使いたい人が使いたくない人に強いたり、あるいは使いたくない人が使いたい人に強いるから揉め事になるのであって、使いたい人は使えばよく、使いたくない人は使わなければいいだけの話です。

 

原理原則の話

 一応、原理原則の話をするのであれば、戦争の呼称は各国の自由であり主権の範囲ですので他国に強制することはできません。

 例えば日中戦争一つ取っても日本では支那事変や大東亜戦争、中国では中国抗日战争、アメリカではSecond  Sino-Japanese Warとそれぞれ別の呼称で呼ばれています。他にも日本で言う中越戦争だって中国では对越自卫反击战(ベトナムに対する自衛反撃戦争)、ベトナムではChiến tranh bảo vệ biên giới phía bắc(北部国境防衛戦争)と呼ばれているように、ロシアのウクライナ侵攻がロシアでは「特殊軍事作戦」と呼称されているようにです。

 戦争なんてものは基本どのような側面から見てもクソッタレなものではありますが、一応はそれぞれの立場における大義名分や正義があり、そしてそれに基づいた呼称がされます。もちろん歴史は勝者が作るものでありそれを否定するつもりはありませんが、呼称は各国の主権の範囲であって他国が侵害することはできません。

 

「敗者は勝者に従う」文化の功罪

 「日本は戦争に負けたのだから過去の過ちである大東亜戦争の呼称を使うべきではない」とする考えがあることは理解します。

 ただ、その根底の一つにあるのは「敗者は勝者に従う」発想であり、私はこれを現代で過度に適用することは少し不適切なのではないかと思っています。

 

 まず前提として、「敗者は勝者に従う」ことは統治機構の円滑な移行には必要な発想です。

 勝者が敗者を常に殲滅していては全体が摩耗していく一方であり、占領地の農民を一掃しては田畑が荒れるばかりですし、占領地の官僚機構をむやみに破壊してはインフラが維持できません。それは勝者にとっても敗者にとっても望ましくないでしょう。

 よって敗者が大人しく勝者に従うことは再統合を果たして新たな集団を構築するための規範として不可欠だとすら言えます。

 

 ただし、この考え方を強固に持っていると、負けた時はまだいいのですが勝者になった時には敗者へ従うことを強制するようになります

 率直に言えば、この規範の内面化が著しいと勝者の横暴をやらかします

 凄く嫌味な物言いをすれば、戦前に満州や台湾、朝鮮や東南アジアなどの大東亜共栄圏において横暴な態度を取って現地から嫌われていた日本人そのものに他なりません。

 

 敗者を格下として蔑ろにする行為は現代の人権思想にはまったくもってそぐわないでしょう。これは冒頭で述べたように他者へ強いるからこそ問題です。たとえ勝者といえども敗者の人権を毀損していい理由にはなりません。

 

結言

 「敗者は勝者に従う」ことは社会規範として必要であり、ある程度の範囲で今後も適用されていくことでしょう。

 しかし現代は勝者の横暴が許される時代ではありません。

 よって「勝って兜の緒を締めよ」ではありませんが、人は勝者になった時こそ慢心せずに謙虚な姿勢を維持したほうが良いかと思います。

 このような理屈から、私は過度な「敗者は勝者に従う」規範の適用を適切だとは考えません。