最近は英語の勉強がてら、イスラエルとパレスチナの情報に関して英語圏の情報を集めています。あえてイスラエル寄りのイスラエル・ハヨム、パレスチナ寄りのアルジャジーラ、西側諸国の視点としてのロイターと3社の情報を見比べてです。
同じ戦争を報道しているはずなのにそれぞれの視点でこうも物事の見方が変わるものかと驚きます。
今回は重いテーマですので、なるべく重くならないよう自論を述べていきます。
共感で判断することは難しい
イスラエルの全国紙であるイスラエル・ハヨムではイスラエル側の犠牲者や遺族の声が多数掲載されています。さらにwebサイト上では「数百人がハマスに人質に取られてからXXX日が経過、今すぐに彼らを家に帰そう」と表示されて10月7日から何時間経ったかを示す時計が常に表示されており、ハマスのテロに対する反発心とイスラエルの犠牲者に対する共感が強く呼び起こされます。
対して中東を代表するメディアのアルジャジーラではイスラエル軍によって被害を受けたガザ地区の悲惨な写真が無数に掲載されており、イスラエル軍の残虐さに対する怒りと犠牲者の方々の悲痛に対する強烈な共感が生じるのを感じます。
https://www.aljazeera.com/(アルジャジーラは残虐な写真を多く載せているため閲覧注意)
これらは実際のところ、共感で処理することが難しい情報です。
イスラエルの犠牲者と遺族、そしてパレスチナの犠牲者と遺族はどちらも共感をされてしかるべき被害者であり、ケアと救済が与えられるべき存在です。そしてイスラエル軍とハマスは批判されてしかるべきでしょう。
しかし過去にも述べたように共感はスポットライト性が著しく高いため、イスラエルとパレスチナの双方へ同時に共感を持つことは現実的に難しい行いとなります。
ただ、共感にはいくつかの問題があり、その点に注意しなければ不適切な取り扱いをしてしまいかねません。
その一つとして、共感には高いスポットライト性があります。
残念ながら共感はとても狭い範囲でしか行うことができません。人は同時に複数の感情を共有することはできませんので、世界中の全ての人と同時に共感することはできないどころか個人の狭い認知の範囲でしか共感は機能しません。
共感の党派性
共感は別の感情であれば同時に持つことができるものの、同じ感情を別々の対象に持つことは難しい傾向を持ちます。
例えば誰かが殴られたとして、その殴った相手への「怒り」と殴られた人への「同情」は同時に両立し得ます。しかし殴った人の背景事情に対する「同情」と殴られた人への「同情」は両立し難く、いずれかを選択する必要に迫られることでしょう。他にも犯罪の加害者と被害者への同情が両立し難いように、です。
同様に、イスラエルの犠牲者に対する「同情」とハマスに対する「怒り」は共存し得ますし、パレスチナの犠牲者に対する「同情」とイスラエル軍に対する「怒り」は共存し得ます。
しかし共感の党派性に引き摺られると、イスラエルの犠牲者に対する「同情」とパレスチナの犠牲者に対する「同情」或いはイスラエル軍に対する「怒り」とハマスに対する「怒り」は同時に存在することが難しい感情となります。
結言
共感に基づいて片側を批判したり擁護したくなる気持ちは分かります。ただ、それは一種の認知のバグだと言ってもよいかもしれません。
もちろん共感そのものが悪いと言いたいわけではありませんが、単純に、この手の情報は共感で処理しないことが公正な方策となります。
つまるところ、共感による憤怒や悲嘆を取り除いた現実はとても単純です。
イスラエル軍も、ハマスも、どちらも批判に値するクソッタレの悪です。
共感の党派性に基づいて一方に肩入れする必要はなく、どちらの攻撃者も擁護できないクソッタレですし、双方の犠牲者はどちらも擁護されるべき存在に他なりません。