「世の中は理不尽だ」という話は学生や新社会人にとっては身近なテーマの一つかと思います。学校や社会から要求されるあれやこれやが煩わしいものです。
歳を取るとどうにも理不尽が身近になり、さらには抗う意味も見い出せなくなることから、理不尽への抵抗は若さの特権と言えるでしょう。若さが眩しい…
理不尽とは?
さて、理不尽とは字の如く「理が尽くされていない」「道理に合っていない」「矛盾している」、つまり「自分の思う通りにならないこと」を意味します。
実は世の中が理不尽というのは当たり前のことであり、悪いことではないのです。ちょっと理不尽について書いてみましょう。
そもそも理とはなんでしょう?辞書を引けば「物事のことわり」「道理」「正しい筋道」というのが出てきます。合理的な何かという意味合いです。しかしながらその合理性は誰が決めるものでしょう?
タイやミャンマーに居住するカヤン族は幼い頃から真鍮のリングを首に纏っており、その風貌から首長族と呼ばれています。日本人の常識、道理、合理性には合っていないため、日本人からすると「なぜ首を伸ばすのだろう?」と思うでしょう。
悪い例をあげれば、原理主義者が自爆テロを行うのも同様です。私たちには理解できませんが、彼らには彼らなりの合理性と道理があるからこそ自爆という手段を取っています。
また、誰だって人には話さなくても何か変な癖や習慣、こだわりがあったりするのでしょう。人からすれば合理的ではないでしょうがついやってしまうということは誰にだってあるものです。
つまり道理や合理性を意味する理はそれぞれの社会や組織どころか個々人ですら別々に持っているということです。貴方には貴方の道理があるように、相手には相手の道理があります。貴方にとって合理的だと思うことが相手もそう思うとは限らないのです。貴方の思うようにやるということは他人にとっての理不尽になってしまうことを留意しましょう。
逆に言えば必ずしも相手の理に従わなければいけないというわけでもありません。互いの理を持ち寄って擦り合わせ、妥協点を探し、互いの損益を調整すればよいわけです。
「政治」の必要性
別々の社会・集団・個人の利害を相対化して調整し、意思決定を行うことを政治といいます。
政治と聞くと国政に関わる政治家とか学校で習った立法府とかのイメージを学生や新社会人は持つかと思いますが、実際は政治というのはとても身近なものです。大学や病院での教授の立ち位置は政治力に拠るところが大きいですし、企業であれば社内政治という言葉があるくらいです。つまり社会人は日常的かつ当たり前のように政治行動を行っています。
親や学校にいる周りの大人たちが代行していたので、子どもや学生の多くは社会的な政治行動に関する経験がほとんどありません。そのためいざ社会に出てみると自分の思い通りにいかない理不尽なことが徒党を組んで襲ってくるかのような錯覚に襲われます。いや、錯覚ではなく実際に襲い掛かってきます。たまったものではないですね。
大人になったらそれを自身の政治力を持って跳ね除ける必要があるわけです。互いの理を持ち寄って調整することだけは社会を構成する誰もが自然と合意しているルールです。このルールが無ければ誰もが我儘に動いてしまい、社会が成り立たなくなってしまいます。(だから自身の理を押し付けるだけの人は社会的に不適合者というような扱いを受けるのです。)
若者が社会のルールに従って政治ができないのは若者の責任ではありません。なぜ理不尽が存在するか、それぞれの理をどう調整するか、といった政治に関することをちゃんと教えていない大人の責任です。
といいつつも、大人の言い訳ですが、政治を若者に教えるのはとても難しいです…できていない我儘な大人もたくさん居ますし…困ります。
苦は避けるべきか
閑話休題。
仏教には一切皆苦という概念があります。
この苦とは「思い通りにならない」というこの世の真理を説いています。まさに理不尽のことです。具体的には四苦八苦、すなわち生・老・病・死、求不得苦・怨憎会苦・愛別離苦・五蘊盛苦を指します。個別の意味は置いて、この世が諸行無常、諸法無我である以上、苦は必ずこの世に存在しています。別に宗教家のような説法をするわけではありませんが、稀に誤解している人がいるので少し述べてみましょう。
Youtubeのキャッチコピーに「好きなことで、生きていく」というのがありますが、これは文字通り「好きなこと」をやって生きていくという意味です。決して「好き放題に生きていく」というわけではありません。
好きなことをやっているときに苦は無いものでしょうか。もちろん本人が苦に感じていなければそれは良いのですが、楽の前には苦があることもしばしばあります。スポーツ選手は苦労してトレーニングすることで試合に勝って高額な年俸を得るという楽があり、それは市井の人間でも同じです。全ての苦から避けようとしてしまえば、その後の楽を得ることもできなくなります。
別に涅槃寂静に至る必要はありませんが、この世の一切皆苦に対してどのような苦を避け、何を持って楽を得るか、よくよく考えて行動したほうがよいでしょう。