忘れん坊の外部記憶域

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将来世代への負担は合理的な理由になるか

 環境問題や国家財政の議論において「将来世代にツケを回してはいけない」「子孫たちへの負担になる」という言葉があります。極めて強く感情に働きかける言葉であり、議論におけるジョーカーです。将来世代に負担をかけるべきではないのは当然のことですので、このカードを切られると正直なところ正面切った反論のしようがありません。

 しかし感情に強く働きかける言葉であるからこそ、少し立ち止まって考えたほうがよいかもしれません。

論説の根拠にはならない

  確定された事実のように語られますが、発言者の説が実際に「将来世代の負担」になるかどうかの証明とはなりません。

 例えば国家財政、債務償還費や利払い費を考えるとそのお金を払わなければいけない将来世代の負担と言えますが、償還されたお金を受け取るのも将来世代です。逆の見方をすれば国債は将来世代への貯蓄と言えるかもしれません。国債返済のために切り詰めて国家財政を運営した場合、日本経済が収縮する可能性もあります。「借金はあるけど頑張って働いて返してね」という状態と「借金は無いけど仕事も無いよ」という状態はどちらが将来世代にとって負担か判断が難しいところです。もちろん国家財政については今なお専門家の方々が議論を続けており正解は分からないですが、少なくとも議論の俎上に上がる程度には未確定の状態であり「将来世代の負担」かどうかの根拠が示されていないということです。

現在を犠牲にしてよい理由にはならない

 環境問題を例としましょう。確かに化石燃料をじゃかじゃか使い続けることで荒廃した環境と乏しいエネルギーとなった地球を将来世代に残すことは悪い所業と言えます。しかし将来世代に資源を残すためには現在世代が節約する必要があります。私たちのような先進国で生活している人々であれば省エネや節約が可能でしょうが、今エネルギーが不足して生活が困窮している開発途上国の人々にもそれを強要できる理由にはなりません。先進国の人々が途上国の人々の石炭資源利用を制限するのは、穿った見方となってしまいますが「将来世代のために今のまま死に続けてくれ」と言っているようなものです。「将来世代にツケを回してはいけない」と理解はしつつも、「将来世代の利益」は「現在世代の便益」との天秤に乗せなければいけません。

 現在と将来の価値は異なる

  今日手に入る100万円と10年後手に入ることが約束された100万円は価値が異なります。今日手に入る100万円は預金による利子や投資による収益などが見込めるため、将来の100万円よりも価値があります。同様に「現在通常の生活ができる」ことと「将来通常の生活ができる」ことも価値は異なります。現在世代が通常の生活をできるようにすることは将来世代の通常の生活よりも価値が高いのです。これは将来世代の生活なんてどうでもいいという意味ではもちろんありません。将来世代のために現在世代を犠牲にすることは正当化されるものではない、ということです。

縮小方向は持続する

  資源が100あり、毎年10使っていたら10年で無くなります。これではいけないと毎年使う量を頑張って切り詰めて半分の5にしたらどうなるか。資源は倍の20年残りますが、生活は改善されることなく5のままで続けなければいけません。物事は慣性によって継続されるため、縮小を始めると先細りとなっていきます。なんでもかんでも膨張傾向にあればいいかと言えばそれは違うと思いますが、枯渇性の資源に関して言えばやるべきは全体の縮小ではなく無駄の節約とイノベーションです。革新技術によって毎年1にまで使用量を減らすことができれば100年持つことになります。技術屋にありがちな科学信仰ではありますが、縮小よりは明るい未来を描けるのではないでしょうか。

まとめ

 様々な切り口で将来世代への負担という言い分には合理性が無いことを説明してみました。将来世代や子孫の話に私たち人間は弱いものです、どうしても感情が強く出てしまいます。しかしながら感情的になると合理的な判断を下せなくなります。感情に従って物事を決めることも悪いことばかりではありませんが、将来世代へ良い世界を確実に残すためには合理的な判断を下す努力が必要でしょう。