忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

個性は保護するものではなく、現実と戦う武器である

 「みんな並んでゴールしよう」

 今でもやっているのかは分かりませんが、以前に学校教育がそういう流れになったことを覚えています。櫻木ゆめのさんにいただいたコメントで思い出しました。コメントに対して返信させてもらったことについて、少し深堀りしてみます。

 今回は少し厳しめの表現が多くなるかもしれません。

個性とは本来守るものではない

 個性は守らなければいけないという表現をされることがありますが、本来個性とは勝手に滲み出てくるもので守るまでもないものです。同じような環境で育った兄弟姉妹でも別々の個性を持ちます。

 文章が特に分かりやすいでしょう。日本語の文法は曖昧ですがある程度は決まっており、仮名文字は50音、記号を含めても大した数はありません。それでも、同じことを書くにしても書いた人によって文章はまったく異なる表現、構成となります。個性とはそれほどまでに強烈に人のアウトプットを明確に色付けるものです。

 むしろ個性を削ぎ落として画一的な人間を作るほうが難しくあります。莫大なコストを投入して洗脳をしなければ人から個性を除去することなんてできません。

 極端な事例ですが、軍隊の兵士は個性を求められません。命令通りに集団で動くことを要求されており、そのために出来る範囲で個性を排除することが必要とされています。だからこそ兵士を育成するにはお金が掛かるわけです。さらに言えばそれだけコストを掛けて育成した兵士も、動作は無個性になりますが考えや感情は人それぞれです。心の個性まではお金を掛けても除去することなんて難しいのです。

 考えてみれば、何かを例に出す必要なんてないですね。学校や会社、家族など周りに居る人を見れば分かるように、同じような環境に居ても同じ個性の人なんて居ないことがすぐに分かると思います。

平等とは個性を殺すこと

 人はそれぞれに個性があり、それによる得意不得意があります。足が速い、頭が良い、感情が豊か、活発に意見を言う、友達を作るのが上手い、本当に人それぞれです。「みんな並んでゴールしよう」ということは不得意を原因とした落伍者を出さないための平等で優しいことに見えますが、実のところは足の速い子の個性を殺すことであり、さらに言えば足が遅い子まで全員のレベルを下げることでもあります。

 これは想像以上に残酷な行為です。何故ならば"社会や現実はそうなってはいない"からです。子どもが大人になって放り出される社会は競争によって成り立っています。集団同士の競争だけでなく、集団内でも競争は行われます。人は他人よりも優れている何かを手に入れることを望み、手に入れたものを使って競い合います。現実とは個性のぶつかり合いなのです。これは善悪で語ることではなく自然なことです。人に限らず植物や動物だって同じです。

 平等を謳って子どもたち全員のレベルを下げるということは、個性という武器を子どもたちから奪った状態で社会に放り出すのと同義です。それは狩りの仕方を教えない肉食動物の親や逃げ方を教えない草食動物の親と同じようなものであり、大変に残酷な行為だと言えます。

 競争は敗者を生むため悪であると考える方も居ます。きっと優しい人なのであまり悪く言いたくはないのですが、そうであれば競争できないように子どもから個性という武器を取り上げるのではなく、競争が不要な社会を作ることを先に達成すべきです。現実の社会がそうなっていない状況で個性という武器を取り上げることのほうが、競争そのものよりもよっぽど残酷だと私は考えます。

子どもが反発するのも当然

 昨今バズっている「親ガチャ」や「上級国民」という言葉は皆平等であったほうが良いという理想を子どもに教育することが原因だと考えています。

 「学校や社会は平等を語るけど、現実はそうじゃないじゃん!」

と子どもが反発するのも当然です、事実その通りなのですから。

 子どもには厳しくても現実をちゃんと教えてあげたほうが良いです。教育は理想を語って子どもを惑わすべきではなく、現実と向き合いしっかりと生きていける術を身に着けさせることであるべきだと思っています。ペットのように親や社会が子どもを一生保護するのならばいいのですが、”現実”はそうではないのですから。

余談

 なぜ人は社会を構築するのか。それは子どもが弱く集団で保護しなければいけないからです。なぜ人の子どもは弱いのか、それは脳、つまり頭が肥大化したために、産道を通るため体が未熟な状態で出産しなければいけないからです。つまり人の社会は”子どもを無事に育てて独り立ちさせる”ために作られました。

 子どもが大人になるまで育てることが社会の目的であり、大人の仕事は子どもを無事に育てられる社会を維持することです。食べ物を取ってきて与えるだけでなく、食べ物の取り方を教える。それこそが大人の責務ではないかと私は愚考します。