物事の善悪・好悪に関する価値観について考えていると悟りとは何かという考えに辿り着きます。悟りたいと考えている仏教ガチ勢というわけではないのですが、少し悟りについて考えてみます。もっとも、具体的な話はお坊さんの説法や書籍を読んだほうが良いです。
悟りに関する情報
悟りとは何かを一言で言い表すことは到底不可能です。それは体験的なものでもあり、認知的なものでもあり、概念的なものでもあるからです。
原始仏教における悟りは釈迦の至った境地であり、四諦によって体系化されています。大変に大雑把な理解ではありますが、この世は一切皆苦であり、苦の原因は煩悩や妄執によるものだとして、それらからの執着を捨てて苦しみを滅した境地を悟りと言います。まあ、私のような俗人が理解している程度の範囲では悟りの本質とは思えませんが、他に表現を持たないためこのように解釈しています。
原始仏教では八正道や三学による実践が悟りへ至る手段でしたが、それでは多くの衆生が救われぬ、仏はそこまで無慈悲ではない、と悟りへの方法や捉え方を解釈し直したものが大乗仏教です。大乗仏教はさらに様々な分派に分かれますが多くは方法論の違いであり、主として悟りを得ることが目的であることには変わりありません。
仏教の元となったバラモン教やその系譜であるヒンドゥー教、近傍の宗教であるジャイナ教などでも類似の概念として悟りがあります。これらにおいても同様に煩悩や妄執を捨て去った状態を最上のものとして考えています。
価値が有るか、無価値か
煩悩や妄執を捨て去ることが悟りと簡易的に定義しますが、それはつまり物事の善悪・好悪に関する価値観・価値基準を持たないということになります。善悪や好悪に囚われることこそが煩悩や妄執だからです。
ここで疑問となるのが、価値観を持たない状態というのは全てに価値があるとする有価値なのでしょうか、それとも全てに価値は無いとする無価値なのでしょうか。相対的にはどちらも±0で同じものとなりますが、絶対値で考えるとまったく意味合いが異なります。
この世全てを無価値と見る虚無主義的な捉え方は一部の密教などで用いられていますが、この考えを突き詰めていくと全ては無価値であるならば毀損しても良いという思想に至る危険があります。それは窃盗や暴行、殺人といった悪行すらも許容し得る危険な考えになり得るものです。実際に密教徒によるそのような事件も起きていることから、人の為とはならない不適切な解釈だと考えます。オウム真理教におけるポア(他者を殺害することでその魂を救い、より高次の世界へ転生させる)の思想もこのような密教から引用されたものであり、現世を無価値な無と見なすことは悪行を悪行と思わない発想に至るのです。
また、全てを無価値とする虚無的な考え方が「空」だとする考えがありますが、仏教においてはそのような空の捉え方は誤りであると考えられています。
この「空」に関してもまた宗派によって解釈がそれぞれ異なることから単純に語るのは困難なのですが、私個人としては中観派の捉え方が好みではあります。この世の全ての事象は対となる概念と相対的な依存関係にあり、あらゆる事象は固定的な価値を持って存在しているわけではない、全ては実体と虚像、仮観と空観、仮名(仮の姿)であり無自性(空)であり、仮観に囚われれば物質的なものを奪い合う我欲に塗れることとなり、空観に囚われれば何の役にも立たない空虚な存在が残るだけとなる、どちらかに傾倒すると誤りを招くことから双方を理解した上で中道の立場を取る(中観)ことが良い、とするのが中観派です。いや、まったく説明し切れている気はしないですが、簡潔にまとめることは難しいのです。とにかくこの偏らず中道を行くというスタンスが私の好みです。
結論
つまるところ悟りとは、価値観を持たない状態ではあるけれども、それは決してニヒリズム的な虚無を意味するものではなく、価値は存在しているがその価値は不定であるため、実体や幻影の価値に囚われず本質を見抜きなさい、ということだと解釈しています。多分全然掴めていないのでもっと勉強しないといけないです。
イスラム教を除いて各種宗教については齧った程度に学習していますが、仏教は特にロジックが複雑かつ入り組んでいるため全容すら理解することが難しいと感じます。欧米のエンジニアが仏教や禅宗に興味を持つのも分かるような気がします、このロジックを解き解していくのはただ単純に面白いです。ちなみにイスラム教はアラビア語が読めないのでちょっと手を出せていません。
日本では宗教に忌避感を持つ方が統計的に多いのですが、多くの宗教は人々がより良く生きるために善なる方向へ指向することを目的としています。もちろんぶっ飛んだヤバい宗教もありますが、あまり色眼鏡で見てしまうのも勿体ないなと思う次第です。
余談
少し話は逸れますが、この世は苦しみに満ちており一切皆苦であるというのは多くの宗教で語られる内容です。ヨーロッパの世界ではそれは神という外部的なものによるとされ、アジアでは人の心という内部的なものによると大別できます。
寒冷な地域で食物の生育が困難であることから生存にすら難があった西側では外部に理由を求め、温暖で動植物が多く生存が容易な環境のため人口が多かった東側では内部に理由を求めるというのは、地学的には大変納得がいくものです。もちろん例外は多々あるというよりもこの二項分割は相当に大雑把な大別なので、実際はもっと細かく考えなければいけないのですが。中東やアフリカ、北米、南米などもまたそれぞれ異なる経緯や環境によって独自の宗教観を持っていて面白いです。
日本は特に面白く、外部の神々に理由を求める神道と内部に理由を求める仏教を混ぜ込んでしまうという自由な考えの地域です。だからこそどこよりも宗教的であり、どこよりも宗教観が無いのかもしれません。