忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

心に注がれる液体

 人の思考回路は千差万別であり、それぞれに異なるものです。よってどうにも伝わらない話だとは思いますが、私の思考回路について少し書いてみます。

2つのコップ

 時々、頭の中にコップをイメージしています。コップは2つ、片方には論理、片方には感情とラベルを貼っています。そのコップには自らの手で液体を入れることもあれば、人の言葉や行動が液体となって注がれることもあります。

 コップから液体が溢れると片付けが大変になりますので、溢れないように中身を飲まなければいけません。論理のコップは私にとってほどほどに美味しく、コーヒーのように鎮静作用があります。感情のコップは炭酸水のようなもので、刺激が欲しい気持ちの時に飲むと楽しめますが、一度にたくさん飲むと辛くなります。

 コップからコップへ液体を移動することも可能です。そっと感情のコップを傾けて論理のコップへ注ぎ込むと、炭酸水は不思議とコーヒーへ置き換わっていきます。ゆっくり注ぐのがポイントです。慌てて流し込むと液体が混ざってしまい美味しくなくなってしまいます。

 私の感情のコップは論理のコップよりも小さいため、すぐに論理のコップへ移し替えてあげないと感情のコップが溢れそうになってしまいます。そのため、感情のコップから論理のコップへ毎日注ぎ込んでは煽るように呑み、休日の余裕がある時にだけ感情のコップを楽しむことにしています。

具体的な話

 哀しいニュースを見たり、心を動かされる出来事に出会ったり、人が不合理な要求をしてきたり、ミスや不手際によって問題が発生したりすると、トクトクと感情のコップに液体が注がれていきます。そんな時はゆっくり論理のコップに移し替えます。

 例えば先日の京王線における刺傷事件のニュースを見た時は、被害者の気持ちへの共感と悲しみはひとまず論理のコップに流し込み、何故このような事件が起きたのか、防止する方法はあるのか、乗客による扉の開閉の是非や方法論の比較、ホームドアの整備によるシステムフローの変化、電車の設計における安全性確保の考え方の検討、過去の事故や事件との比較、というように論理面のみで理解を進めようとします。

 他にも例えば誰かが仕事のミスをしてその後始末をしなければいけない時は、感情のコップへ流れ込んでくる苛立ちの感情をとりあえず論理のコップへ注ぎ込み、どう後始末をするか、なぜミスをしたのか、再発防止策はどうするか、関係各位にどう報告するか、といった論理面に注力します。苛立ちを楽しむのはまた後日とするのです。

 私は他人からあまり感情的にならない人だと思われがちなのですが、感情的にならないのではなく感情のコップが小さいためにせっせと論理のコップへ移し替えているだけなのです。そのため突発的なトラブル的事象が発生すると移し替えが間に合わずに感情的になることもあります。

人による違い

 人によってコップの数や大きさ、液体の種類などは異なります。私は論理のコップが大きく感情のコップが小さいのですが、論理よりも感情のコップが大きい人は貯め込んでも大丈夫でしょうし、感情のコップに入っている液体がお茶だからいくらでも飲めるという人もいるでしょう。人によっては信仰や忘却といったコップを持っているかもしれません。どのコップも飲みやすい人もいればどのコップも飲みにくい人だって居ると思います。

 重要なのはコップの液体を零さないことです。零れた液体を拭き取るのは一苦労です。自らの持つコップの種類と大きさを考慮して、自分が飲みやすいコップに注ぎこむのが良いでしょう。

 

 残念なことに世の中にはコップの液体を自分で飲まず、人に向かってぶちまけることが好きな人が居ます。特にSNS上ではよく見かける気がしますが、まあそれは目立っているだけで、別にSNSだけに限った話ではないとは思います。確かに液体が溢れて零れると片付けが大変ではありますが、だからといって人に向かってぶちまけるような行いはあまり褒められたものではありません。かけられた人はそれを片付けなければいけないのですから。

 自分のコップは自分で飲むか、一緒に飲んでくれる人に頼むか、いずれにせよ自分で責任を持って処理するべきであり、人にぶちまけるようなことは控えたほうがいいと思っています。人には人のコップがあり、それを飲まなければいけないのです。

 とはいえ一人で飲み続けるのは辛いこともあるでしょう。ぶちまけるのではなく、共に注ぎ合い、分かち合う人が誰しも必要かもしれません。