単純化された物語は理解を容易にする反面、現実を正しく捉えられなくなることには留意が必要です。
「朕は国家なり」を引き摺ることなかれ
世の中には集団を捉える際に組織それ自体とその構成員を上手く区分できない人がいます。もっと言えば集団を擬人化により個として思考してしまう人がいます。
特に国家が分かりやすい事例でしょう。古くは中国や韓国などの近隣諸国に対するネット右翼的な誹謗中傷、昨今であればロシア人やイスラエル人に対する誹謗中傷がインターネット上で散見されるように、国家と国民を直接的に結び付けてしまう人がいます。
実際のところ、国家機構とその構成員はイコールではありません。そもそも集団が下した意思決定はその構成員の合計ですらありません。何故ならば集団の意思決定には集団に特有の思考が生じるためです。
私たちはハイブマインドのような集合精神を持った存在ではなく個々に意思を持った個人であり、だからこそ集団の意思決定においては集団思考/集団浅慮と言った不適切な意思決定、集団的無知のような思い込み、社会的促進や傍観者効果のような抑制が生じます。
つまり集団の意思決定は集団の知性の合計ではなく、むしろ平均ですらなく、大抵の場合は集団の個々人が持つ知性以下の低劣な意思決定しか下すことはできません。それを無視して集団を擬人化し、その擬人化された存在を構成員に写像することは論理的に不適切です。
国民国家と言えば国民と国家が直接的に地続きであるかのような言葉に聞こえるかもしれませんが、実際の国民国家は「朕は国家なり」とは対極に位置する存在です。
王様や独裁者が個人の意思で国家を動かす独裁国家・専制国家においてはその個人の意思決定と国家の意思決定が同一となります。対して国民国家ではその意思決定の結果と国民個人個人には大きな乖離が生じることが必然です。なにせ意思決定が集団に依ることとなる以上、前述したように集団特有の思考が生じるためです。
率直な例示をすれば、『国家として日本が下す意思決定』と『日本に住む日本人の考え』は当然ながら完全にイコールとはならないでしょう。むしろ『お国と考えの違う日本人』は探す手間なんて不要なくらいそこら中に居ますし、『お国と完全に同じ思考を持った日本人』は探すほうが難しいくらいです。
つまり国民国家はその銘打たれた名称とは裏腹に国民とは乖離した意思決定を行うシステムです。
よって国家のような集団の意思とその構成員の意志は論理的に一致し得るものではなく、完全に切り離して考える必要があります。
二極化思考へ陥る弊害
国家と国民の同一視。
その思考の先にあるのは全肯定/全否定の二極化思考です。つまりは群としての国家と個としての個人を適切に峻別できなくなり、国家の悪行を個人に写像してしまうような発想です。
例えばイスラエルが国家としてガザ地区で行っている悪行を個々のイスラエル人に写像するような考え方をすると、イスラエルの悪行を全否定するためにその構成員たる全てのイスラエル人までもが全否定すべき邪悪な存在に見えてしまうことでしょう。実際にはハマスのテロによって犠牲となった被害者やその遺族、あるいは国家の行為に同意していないイスラエル人など悪行とは離れた位置にいる弱者や反発者が必ず居るにも関わらずです。
あまり好みではない嫌味な言い方となってしまいますが、「イスラエルは悪だ、よってイスラエル人は悪だ」と言ったような発想は、往年のネット右翼的な「中国は悪だ、よって中国人は悪だ」とまったく同じ発想です。それが適切な言説だとは個人的にとても思えません。
このような二極化思考は少なくとも集団のような群を扱う時には意識的に避けたほうが無難です。
群は群であり、個人は個人です。イスラエルはクソ国家の代表格ではありますが、個人のイスラエル人が同様とは必ずしも言えません。
何はともあれ群の意思決定は個人の集合とはならないことを理解する必要があります。
結言
群を捉えることは個を捉えることよりも難しい行いです。個と異なり群には分散や分布が存在しています。つまり群を群として捉えるためには数学的・統計的な知見が不可欠です。そのような情報処理の手間を避けるために群たる集団を個たる個人に擬人化してしまうことは自然な思考機序ではあるのでしょう。
ただ、それは誤った論理に他なりません。
集団の思考は集団特有のファクターが介在することが現代では分かっている以上、集団と個人を同一視することは感情的に妥当ですが論理的には不適切です。難しいことですが意識的に切り離して考える必要があります。