忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

言葉の暴力はまさしく暴力

 ヘビィなテーマについての記事を書いているのですが、筆が進まないこと進まないこと。各所への配慮を考慮すればするほど何も語れなくなるような気がして、どうにも筆が進みません。

 もちろん配慮を投げ捨てて一方的な攻撃性の強い文章を書くことも出来るのですが、それはなんとも単純に、好みではありません。

 そんなわけで今日は息抜きとして、配慮することそのものについて語りましょう。

 

配慮をしないのは簡単だけど効率は悪い

 最初に書いたように、文責を考慮せず配慮をしないで思ったことをただそのまま語るだけであれば簡単です。配慮をするよりもしない方が楽なのは実に道理と言えます。

 しかしながら、自身の考えを世間に述べてあわよくば世の中のためになりたいと思っているのであれば、相手方への配慮は必須です。世の中には攻撃的で一方的な意思表明をする人が実に無数にいますし、その中でも一部の活動家はきっと世のため人のために活動しているのだと思いますが、攻撃的な活動家というのはトータルで見るととても効率が悪いのです。下手をすればマイナスです。

 刺激的で、読んでスカッとするような攻撃性を持った文章や表現は確かに人の目を引きます。多数の人に読まれて一定の味方と一定の敵対者を得ることができるでしょう。その目的が「フォロワーを増やすこと」「PVを増やしてマネタイズすること」であれば、まあ合理的です。フォロワーやPVを増やすためにはそもそも人の目に付く必要がありますし、どれだけ敵対者を増やそうとも一定の味方を獲得することが出来ればそれで充分なのですから。

 

 しかしそれは個人の合理性です。社会全体で言えばまったくもって合理的とは言えません。よって活動家の取るべき戦略ではないのです。

 他者の不用意な攻撃性に晒された人は認知的不協和に陥り、攻撃してきた相手に対して反撃をしようと考えることがあります。無責任な攻撃性の発露は他者の攻撃性を誘発し二元的な分断を招きかねないのです。そのような言説が増えると社会全体で議論と言う名の愚かな罵り合いが増加してしまい、社会全体が無意味に疲弊させることになります。様々なWebメディアのコメント欄での口喧嘩はまさにそんな感じです。

 それは世の中を良くすることにはまったく繋がらないどころか、集団に無意味な争いを強いるということで、度合いによっては集団にとってマイナスです。文章に配慮をしないということは実に無責任で自分勝手な我儘放蕩であることを肝に銘じなければいけません。

 

 さらに厳しい表現をすれば、攻撃的な表現というのは他者の認知的不協和を引き起こすものであり、つまり他者の心を強制的に動かすという意味でまさしく暴力なのです暴力というものが他者の身体・精神・財産に対する強制力である以上、攻撃的な表現を用いた文章と言うのは正しく暴力の名に値します。もっと極論を言えば、他者に配慮しない言動というのはそれそのものが暴力なのです。

 よって世の中を考えて活動している活動家・運動家の方にはなるべく攻撃的な表現を用いず配慮した表現を用いてもらえることを望みます。もちろん暴力によって世の中をより良く変えることができるという理解不能な信仰をお持ちであれば別ですが。まあ、反例として現在のロシアでも見てみれば良いかとは思います。暴力は確かに現状を素早く絶対的に変革することが出来ますが、それが良い方向かと言われると私には疑問符しか湧かないです。

 

 ちなみに、人はカッと頭に血が上って攻撃的になっている時は他者の話など聞く耳を持たなくなるものです。人体の生理反応として攻撃対象へと意識が集中し外部情報が遮断されるためです、というような理屈を考えるまでもなく、怒っている人が周囲の話を聞けなくなるのは体験的に分かることでしょう。

 よって他者へ配慮せずに相手を怒らせるような攻撃的なことを述べるような活動家は、自身のその意見が伝わることは無いということを理解したほうがいいでしょう。これは「愚民どもに高尚な理想を授けてやる」と考えているようなインテリの活動家に多いパターンです。その手の啓蒙は絶対に失敗します。聞く耳を持たなくさせているのは自身の言動であることを理解できない時点でお話にならないのですが、お利巧なインテリのはずなのにその程度のことも理解できないというのはなんとも不思議なことです。👈このような攻撃的な表現を用いると意見が心に刺さったとしても同意したくなくなるでしょう?これが攻撃的な表現、配慮に欠けた文章の弱点です。

 誰かに意見を伝えたいのであれば配慮は必須です。

 

息抜きするって言ったのに

 息抜きで書くような軽さの内容では無かった気がします。