忘れん坊の外部記憶域

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福祉は属性ではなく閾値で決めたほうがいいのではないか?

 3月23日に厚生労働省が初めて実施した「生理の貧困」の実態調査結果が発表されて、一部で話題となっていました。

「『生理の貧困』が女性の心身の健康等に及ぼす影響に関する調査」の結果を公表します|厚生労働省

 

 このテーマはとても重い内容であり、あまり軽々しく触れると各所からお叱りを受けそうで怖いところではありますが、問題解決の一助となれるようロジックを整理していきたいと思います。

 

男が語る意義

 生理の貧困問題に対して男である私が語るのは正直なところ大変に難しいです。お前ら男に何が分かるんだ、という反論は実に道理だと思います。

 ただ、「生理の貧困」は国際NGOや国連女性機関による「Period Poverty」の和訳で、生理用品へのアクセスの欠如全般が問題とされています。つまり貧困といった経済問題だけではなく、周囲の理解不足や羞恥心、家族の無知や育児放棄、生理のタブー視や男尊女卑社会といった様々な課題を包括的に解決することを目的とした人権尊重の活動です。貧困という和訳では経済問題のみと誤解されかねず、実際SNS上では生理用品のお金の話ばかりになっており、これではお金はあってもアクセスできない人を救えなくなってしまいます。誤訳とまではいかないまでも適切な翻訳とは言えないでしょう。

 つまるところ、男だから語りにくいということ自体がこの問題の原因の一つでもあるわけです。だからこそあえて男の側からも、むしろ男こそ真剣にこの問題の解決方法を考えなければいけないと愚考します。

 

金額の問題だけではない

 この問題に対して最も多い声は金銭に関してです。「毎月いくら掛かっている」「毎月いくらで充分なはず」というような応酬が最も頻繁に行われています。

 しかしながらこの問題は前述したように金銭的な貧困問題だけでは無くアクセス性全般が課題です。毎月の費用や個人の収入は個人差が大きいことから、そこを論点としていては話がまとまるはずもなくズレていく一方となってしまいます。

 

重要なのは福祉の範囲をどう考えるか

 生理が議題となっているため男女の二元論で語られてしまいがちですが、この課題の本質部分は自由主義レジームと社会主義レジームをどのような比率で適用するかという点です。すなわち、自助努力によって解決すべきであるという個人主義的発想を持つべきか、差がある部分には平等になるよう補填がされるべきだとする全体主義的思想を適用すべきかです。修正資本主義の国家ではこの比率を常に問われており、生理の貧困問題はその一つと言えます。

 自由主義レジーム極振りはあり得ません、それは格差の拡大とそれによる弱者の人権侵害を招いてしまいます。社会主義レジーム極振りも論外です、完全な再分配は幻想に過ぎません。

 よって「どの課題に対して」「どこまでを勘案し」「どうやって補填するか」という福祉の範囲を課題ごとに都度検討し、状況に応じて修正していく必要があります。

 

属性による分類は望ましくない

 特に重要となるのが「どうやって補填するか」です。二元論的に「生理に掛かるコストは女性のみなのだから女性全般に補填されるべき」というロジックも考えられますが、それは現実的ではありません。属性による分類は問題が残ります。

 

 第一に、各属性における差異というものは必ず存在します。それを個別に調整し切ることは不可能です。例えば「男性は平均的に女性よりも体が大きい人が多く代謝も活発なため食費が女性よりも掛かることから、そのコストを補填するために女性税を取ります」なんてありえませんし許されるわけも無いでしょう。それと同様に、生理の貧困問題に対して男性税のような補填の仕方をするのは現実的とは言えません。

 

 第二に、属性はデジタル的なものではなくアナログの分布を持っています。

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 ある属性の人々の収入や環境がまったく同じということはあり得ません。単純な属性による区分はその属性を持たないが困っている人を見捨てることに繋がってしまいます。

 例えば最も資産を持っている世代は高齢者世代です。しかしながら、「だから高齢者には金銭的補償は不要だ」というような属性の区分はとても危険です。たとえ資産の平均値が最も高かろうと分散も存在するのであり、そのような政策を取っては資産の無い高齢者が困ることになります。援助対象となる属性に属しておらず、そして分散の下限側に居る人々からすれば属性での援助は明確に逆差別となり得ます

 福祉というものがすべての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念である以上、障害の有無、男女の差、世代の違い、家族構成といった属性を対象とした援助ではなく、閾値を設定し、実際に困っている人を狙い打って援助が行われることが望ましいです。属性に対する援助では福祉の理念が達成できません。

 

生理の貧困に関する見解

 今回の厚生労働省による生理の貧困の調査に対して「そんな調査をしているお金があるのならそれを配れ」という意見を見掛けたため、それは少し違うのではないかと思い考えを整理しています。困っている人を助けるためには困っている人を行政がちゃんと捕捉して掬い上げる必要があり、そのためにも調査は不可欠です。

 福祉に投じることができるリソースは有限です。とにかくお金を配れというような政策はあっという間にリソースの枯渇と本当に困っている人への援助不足を引き起こします。最低限の幸福と社会的援助を達成するためには閾値を設けて、そこを下回ってしまう人々に手を差し伸べるような構造を持つべきだと考えます。

 今回のテーマとなった生理の貧困についても同様です。生理用品へのアクセスに困っている人は全体のおよそ8%です。逆に言えばそれ以外の人は困っていないということであり、女性全員に援助を行うという路線は現実的とは言えません。それは金銭的に困っている別属性からの反発を招きかねないものです。

 しかし困っている人が8%も居ることは事実であり、それは収入や羞恥心、家族の無理解が主な原因となっています。よって女性全員に援助を行うのではなく、家族を経由せずにアクセスできる手段の拡大や人によって高額となっている医療費の補助、学校教育の見直しや行政による周知にリソースを割く方が本当に困っている8%を救うことに資するでしょう。

 

福祉の閾値

 本来は属性に対する援助をすべきかどうかで議論を消費するべきではないのです。確かに属性をもって議論をするのは一見分かりやすく、議論自体は盛り上がります。しかし属性に対する援助は前述したように非現実的かつ逆差別を生むものです。正直なところリソースの無駄遣いとしか思えません。

 そうではなく、困っている人をどこまで救うかという基準点、自由主義と社会主義をどの程度の比率で導入するかという社会的合意を模索し、福祉の閾値探しにリソースを注ぐべきだと愚考します。

 

 

余談

 平均値というのは標本空間の代表値の一つではありますが、それ単体でその群を説明することは出来ないことを忘れてはいけません。正規分布であれば分散や歪度・尖度、そうでないなら中央値や最頻値などを合わせて見る必要があります。