忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

本当に「安心」したいなら頭を使わなくちゃ

 少し厳しいことを言う回。

 

「恐怖」も「安心」も売っている時代

 このブログでも度々述べてきていますが、良い情報よりも悪い情報を選好してしまうのは動物の本能的なものです。死んでしまってはどれだけ好物があったとしても食べられないのですから、生物が良い情報よりも悪い情報へ優先的に反応するようできていることは自然な反応だと言えます。

 そして、だからこそニュースは基本的に人が怖がる情報を流します。それは需要があるものを仕入れて売る商売の論理上、やむを得ないことです。

 

 その反面、「安心」できる情報を商材にしている人もいます。暗闇の中で光を見つけたらそこへ向かっていくように、恐ろしい情報が溢れているこの世界で恐怖に駆られた人々が「安心」できる情報へ簡単に飛びついてしまうのはやはり必然です。

 率直に言って「安心」は売れます。しかも、そこそこの高値で。

 「安心」の販売者は宗教団体やオカルトといった典型例に限らず、耳目を集めることが商売となる昨今のアテンションエコノミー環境ではSNSでも「安心」を商材としている人が散見されます。

 

消耗品の「安心」を購入することの是非

 もちろん人は苦痛を避けることを志向するものであり、危険や心配をせずに済む状況へ身を置き心を安らげることは人間にとって一種の至上命題です。だから「安心」を購入したがる人の心理はとても人間的で自然なものだと言えます。

 しかしながら、販売されている「安心」は消耗品です。

 薬と同様にしばらくは心を落ち着かせる効果がありますが、自らの心が産生した作用ではなく外部からの投与になるため必然的に継続的な摂取が必要になります。

 厳しい表現で言えば、それは偽りの平穏と呼ぶべきものです。

 マルクスの「宗教は大衆のアヘンである」ほど厳しい言葉を用いるつもりはありませんが、「安心」の購入は心が感じている恐怖を抑えているだけで消し去っているわけではないため、中毒症状のようにいつまでも安心できる情報を買い求めることになってしまいます。

 それは陰謀論やカルトといった「安心」の販売業者からすれば養分であり、社会にとっても個人にとっても決して有益ではありません。

 

自らの頭で考えること

 偽りの平穏ではなく本当に安心を欲するならば、人から与えられる「安心」を購入するのではなく自らの頭で考えることが必要です。暗闇の中で安心を得るためには、恐れて目を瞑るのではなく、外部の頼りない光を求めるのでもなく、自らで明かりを灯すことでのみ真に安心を得ることができます。自らの意志で灯火を掲げられるのであれば、暗闇は決して恐ろしいものではありません。

 それはつまり、怖い情報を避けるのではなく、安心できる情報を探すのでもなく、怖い情報を積極的に受け入れて分析し、必要以上に怯えないことです。

 もっと現実的な表現を用いれば、頭を使ってリスクを正しく分析し評価することを意味します。

 

結言

 凄く仏教的かつ啓蒙思想的なことを言っている気がします。

 

 

 

余談

 最後に、個人的にはそこまで好みの考え方ではありませんが、ある種の「Ignorance is bliss.(無知は至福)」又は「知らぬが仏」のような一つの「安心」の得方として、少しシニカルな考え方を提示してみましょう。

 

 安心の反対は「不安」や「心配」です。

 自分の持ち合わせている以上に各所へ心を配るから心が不足して不安になるのであり、自分の持っているキャパシティに応じて心を配る範囲を定めることが最も安心に近づくことができます。

 それこそ、心を配る範囲は家族や友人などの範囲で抑えて、テレビやSNSなどの『遠くの人々のこと』に首を突っ込んで心を配ることを止めれば、少なくともテレビやSNSを見て不安を溜め込んでしまう人よりは心に平穏をもたらすことができるかと思います。