忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

人の温もりを感じる時

 

 ふと、職場のデスクから左に位置する窓の外を見る。白く塗装された隣の建屋の壁面は日光による発色を失い、こちらの建屋の蛍光灯に淡く照らされた部分だけが薄墨に再塗色されている。

 外を眺めていても仕方がないので、右へ振り返る。首を曲げるだけでは足りず上半身を捻り腰を軽く浮かしながら後方を眺めると、視界の端に映った古い壁掛け時計の短針が9を再び通り過ぎていることに気付く。

 時計を見るついでにフロア全体を眺めてみれば、人影はもう疎らだ。残った人々も帰り支度を始めている。以前であればまだ盛況であったこの時間と場所も、厳密な労務管理が適用されるようになったことで今では人間の発する喧騒からの自由を謳歌できるようになった。人の居ぬ間に動き出して語り合いたいデスクやプリンターからすれば未だ職場に残っている私のような存在は邪魔であろう。

 総務的な都合から、4時間以上の残業はひと手間増える。そこに深慮は無く、ただ深夜割増賃金の発生を会社が敬遠するため以外の理由はない。よって9時を過ぎる頃には上司の眼力と自宅の引力、或いは仕事の斥力によって人々が出口の自動扉から掃き出されていく。残されるのはその吸引力に抗えるだけの重さを持った人だけだ。その重さが仕事の残量なのか、気の重さなのかは分からないが。

 

 この時刻ともなれば空腹の虫はすでに鳴き疲れて大人しくなっているが、必然的な取引として思考は鈍さを増し生産性は下落する一方でもある。単位時間当たりの生産性を重視する効率至上主義者の私からすれば著しく好みではない状況だ。まったくもって好みではない。

 とはいえメールや電話は静かになり、後方に座っているけたたましい人々もすでに居らず、集中を遮断し仕事を阻害する要素はほぼ無くなる。気力が多少鈍ろうとも定時内と比較した生産性に差し引きはない。喜ばしいことでは決してないが、好みの問題を脇に据え置く程度の意味はある。

 

 ただ、この季節はとかく寒い。

 エアコンは変わらず冷媒を断熱圧縮して発生した暖気を室内に送り込んでいる。しかし昼間に蓄えられたコンクリートの熱は熱力学第零法則に基づいて外気との熱平衡が進んでおり、夜間の建屋全体の底冷えを止めるほどの出力はこのエアコンにはない。

 そしてなにより室内の熱源が漸減したことが冷え込みの最たる理由である。100台以上のパソコンが発する熱は決して無視できない量であるし、なにより100以上の熱源がこの時間にはすでに払底している。

 すなわち、極めて物理的な"人の温もり"が存在しない。だからこそ室内は冷え込んでいく。おそらく人の精神にも熱力学第零法則は適用されるのだろう。一刻ごとに低下していく室温は同時に労働意欲の熱をも奪い去っていく。室温と熱意の相関係数は高いに違いない。

 

 あまり長く居座ると深夜巡回をする守衛のおじいさんと鉢合わせることになる。それはなにも悪いイベントではないが、気は滅入る。「点検、お疲れ様です」「遅くまでお仕事ご苦労様です」といった挨拶のやり取りはある意味で人の温もりを補充できはするが、それも雀の涙だ。労働意欲を回復させるには程遠い。仕事への熱意が底冷えした職場との熱平衡へ至る前に、早々に仕事を片づけて帰路へとつきたいものだ。

 

 冷え込む夜間に考えることなど、この程度のことである。

 やはり、早く帰ったほうがよい。