忘れん坊の外部記憶域

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精神論・根性論は使いどころによる

 精神論(根性論)は賛否両論であり、毀誉褒貶、相半ばするものです。これは単純に議論の土台が異なることが問題です。精神論についての土台を整理してみましょう。

個人・現場においては有用である

 世の中には様々な手本や傾向、パターンやタイプ、好例や定番、手段や手法があり、それぞれの事象において適した教科書的な方法というものが概ね確立されているものです。多くの人々がそれを学んでいます。そのため競争で圧倒的に勝つためには教科書よりも優れたことをしなければいけません。しかしそれを見つけ出すには並外れた才覚が必要でしょう。

 よって多くの人は定型の範囲内で競争することになります。その場合どこで差が出るのか、それは結局のところ努力の差です。もちろん人それぞれに適した方法や個々人の能力差というものは厳然として存在しますが、能力差・環境差があるのは当たり前でそんなものは前提であり、その状況下においてなお差を縮め広げられるかが問われるのです。元々の能力差がある場合は並び立つのにより多くの努力が必要となるでしょうし、能力差が無い場合に差が出るのはどれだけ打ち込んで時間を掛けて努力したかです。

 そしてどれだけ時間を掛けて努力できるかというのは最終的に精神論へ依存せざるを得ないものです。これはさほど理解に難しいことではないでしょう。精神論・根性論に肯定的な意見があるのは、この努力の差異を決めるもの、すなわち如何にインセンティブを得てモチベーションを保てるかがまさに心の問題だからです。

 よって個人や物事の現場においては精神論が有用であると言えます。

精神論に頼るべきではない人々

 しかしながらこれが経営者や指揮官、管理職といった組織集団を差配する立場の人々に対しては異なります。これらの人々が精神論を語る際は注意が必要です。

 組織集団を束ね運営する際に個人や現場の努力を当て込んで計画を立ててはいけません。あくまでも努力は個人や現場がもたらすプラスアルファのものであり、あれば良い程度のものです。厳しい表現となりますが、他者の努力に期待するなんてことははっきり言って誰にだって出来るのです、そんな程度のことは子どもにだって出来ます。運営者の仕事は他者の努力に期待することではなく、他者が努力できる環境を整えることです。それこそが運営者の仕事です。精神論を語るのではなく、精神論を発揮できるようにリソースをマネジメントすることこそが仕事なのです。他者の努力に依存し、他者が努力することを勝手に見込み、他者の献身と健気を利用し、マネジメントを放棄して適切な計画立案を行えないのであれば、無為無策・無能の誹りを免れないでしょう。

 過去に個人的な精神論と努力によって競争に勝ち抜いてきたからこそ高い立場に立っている人は精神論で組織運営を行いやすいものです。何故ならばそれで成功してきたのですから。しかし立場が変わっても同じ方法が通用すると考えてしまうのは認知バイアスであり、大きなリスクを伴うことを留意しなければいけません。立場が変われば仕事も方法も変わる、いえ、変わらなければいけないのです。

結論

 精神論・根性論の要否は議論になりやすいテーマです。それは議論の土台、すなわち「誰に」精神論が必要かということを定義していないために起こります。

 個人や現場には精神論が必要な時があります。もちろんそれだけで良いわけではありませんが、不要ということはありません。少なくとも有用である場合が多々あります。

 個人や現場を管理する立場の人々は安易に精神論を用いてはいけません。精神論を強要するのではなく、それを個人や現場が発揮できるように環境を整えることこそが管理者の仕事だからです。

余談

 私個人としては何でもかんでも競争して他者を負かすことを良しとする考えではありませんが、人間社会も自然である以上生存競争は明確に存在するものと考えています。よって安易に競争を否定するつもりはありません。競争第一主義ではありませんが牙を抜くべきとも思わないということです。

 必要な時に必要なだけの能力が無ければ悪人の餌食になる危険があります。「争わなくてもいい、競争は必要無い」という言説を弄する人の多くは恐らく優しい善意の人ですが、その中には他者を弱らせて食い物にしようという悪人が必ず混ざっていることを忘れてはいけないと考える次第です。