忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

今日は何もない良い日だった(日記感)

 

 最近は若干ワーカホリックモードが抜けきらず、今日も今日とて作らなければならない仕事の書類のことを考えていたら一日が終わっていましたので、ブログでは緩い話をしましょう。

 

それっぽい話

 と言っても、今日はまったくニュースなどの外部情報をインプットしていないせいで、特にブログへ書くようなアウトプットが思い付きません。

 どれだけ様々なことを考えられる人であっても、1を聞いて10を知る人であっても、最初のインプットが無ければどうにもならないように、アウトプットするためにはインプットが不可欠です。よって特に書くことが思い付かないです。

 私のブログは普段何かしら見聞きした情報をきっかけとして思うがままに思考をした結果を記事の形で垂れ流しているわけですが、思考のトリガーとなる「見聞きした情報」が無ければ思索が起動せずアウトプットも生じません。

 もちろんインプットした内容そのままを出力しているわけではなく、フレーズ1つや単語1つから思索を巡らせて10や100に膨らませた結果を記事に起こしているのですが、いずれにしても思索を膨らませるための1が無ければ思考は進みません。

 

 まあ要するに「インプットは大切」だという、各所で言い尽くされてきた当たり前の話に落ち着きます。

 どれだけ優れたエンジンを持っていても、どれだけ大量のガソリンを積んでいても、アクセルを踏む動作が無ければ車は走り出しません。走り出した結果はその車の性能に依存しますが、走り出すためのインプットはどのような車であっても必要です。

 人間も同様、行動した結果は人それぞれ異なりますが、そのためのアクセルは誰もが踏まなければなりません。

 さらに言えば、アウトプットの質は訓練次第です。インプットとアウトプットを繰り返さなければ質は向上しない点からしてもインプットは大切となります。

 

インプットの量や質

 インプットの量や質についても少し話を広げてみましょう。

 インプットをこね回してアウトプットを創り出すことに慣れた人であれば、どのような量や質のインプットであっても血肉に変えられると思っています。

 優れた人はありとあらゆることから学びを得ることができますが、それは要するにインプットをこねくり回すことに慣れていると言い換えることができるでしょう。1を聞いて10を知れる人は0.1からだって1を取り出すことができるのですから。

 逆説的に、初心者であったりインプットをこねくり回すことに慣れていない人は、ある程度インプットの量や質へ拘ったほうがいいことも意味します。1を聞くよりも10を聞いた方が効率的であることは疑いようもありません。

 つまるところ、アウトプットの質に悩んでいる人は、インプットが足りないか、インプットをこねくり回す訓練が足りないかのどちらかですので、いずれにしてもインプットの量や質を高めることに注力することがよいでしょう。

 

結言

 ちなみに今日のこの記事は「仕事のことばっかり考えていたから何もインプットをしてないや、じゃあインプットをしていないという体験をインプットにして何かアウトプットしてみよう」と思って書いた記事です。

 アウトプットの質を見る限り、ちゃんとインプットをしなければならないことが分かる結果になりました。それっぽい話をするにしても独自研究部分がほとんどない受け売りのような話ばかりであり、実に反面教師的です。

 インプットは大切です、ホント。