忘れん坊の外部記憶域

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目標設定のやり方~目標が先か、方法が先か

 2050年カーボンニュートラルの実現を菅首相が宣言して以降、脱炭素に関する議論が活発化しています。どうやって実現するか、どの程度のコストが掛かるのか、市場はどう反応しており、投資はどう動くか、といった方法論に関する議論が主のようです。できるできないではなくやらなければならないというような精神論丸出しの謎コラムまで出てくる始末。

 正直なところ辟易しています。「目標設定の失敗」といういつもの失敗パターンと同じルートを辿っているからです。「目標」を先に定めてそこから「方法」を考える愚に陥っています。目標に到達するためにまったく合理的でない方法を選ぶことになったり、目標に数値を届かせるための偽装や不正が蔓延ることになることは火を見るより明らかです。日本でも旧日本軍やバブル期の企業が散々やらかしたことですのに、まったく反省が無いのが残念です。

 

目標設定は現実的に

 目標を先に決めてから方法を考えるのは完全に悪手です。

 「ゴールを設定すれば方法は後から見えるようになってくる」

というような言説がありますが、そんな都合の良い話はありません。

 「明日までに日本人100億人の身長を3m伸ばしてみせる!」

なんて目標を立てたって方法なんか出てきやしません。あるとしても偽装や不正でしょう。

 そんな現実的じゃない目標を立てたって仕方がないじゃないか、なんて言う人もいますが、まさにそこが重要なのです。目標とは現実的に立てなければいけません

 では何を持って現実的と判断するか、それこそが実際に実行できる方法や状況であるかであり、つまり「目標」よりも「方法」が先ということです。

 

目標設定の手順

 目標設定の手順について整理しましょう。

 まず立てるべきは目標ではなく、目的に基づいた方針、ヴィジョンです。

 企業であれば「市場を広げる」や「売上を伸ばす」「利益率を上げる」といったものです。ここでは具体的な数字はまだ必要ありません。

 次に方法検討と現状把握を行います。周囲の環境に支障は無いか、時間的な余裕はあるか、行動する資本は揃っているか、といったことです。そういったことを把握して初めて取れるアクションの目途が立ちます。具体的な数値を決めて、それを目標に設定しましょう。

 

 つまり、【目標】⇒【方法】は完全に誤りです。この順番でやっても達成できない目標が乱立するだけですし、偽装や不正が蔓延る原因になります。

 順番は【方針】⇒【方法】⇒【目標】でなければいけません。

 

 一つの反論として「できる範囲を目標に設定すると飛躍的な発展が無い」というものもありますが、それは誤解です。全ての”飛躍的な発展”はできる範囲です。当たり前のことですが、飛躍的な発展は持っている時間と資源の範囲内で行動した結果起きたものです。魔法のように1日を1週間に伸ばしたり、謎のお金が降ってきたわけではありません。超能力者でもない限り、できない範囲をできる人間なんていません。

 もちろんやる気やモチベーションを引き上げるために高い努力目標を設定することはよいですが、それを前提に計画を立てるのは地に足がついていないギャンブルのようなものです。できる範囲で確実に計画を立てて、それよりも成果が上がればラッキー、とすべきです。

 

 目標設定を誤った場合の弊害

 つまるところ、2050年までに脱炭素社会を達成するという目標を立てるにはまだ早いです。今の段階で法律によって期限を定めるなど論外です。脱炭素社会を目指すという方針に基づいて各研究機関や企業が現状把握と技術研究をして、達成可能なレベルを検討してから目標を決めなければいけません。検証した結果、2050年までに実現するには100京ドルの費用が必要とでも出てきたらどうするつもりなんでしょう。

 さらに言えば30年後、目標に届いていないと罰せられることになる若者はどう思うのでしょうか、彼らには責任など無く、あまりにも可哀そうです。目標と罰則を決めた老人はすでに隠居か死去していることでしょう。

 

 2018年に無茶な目標設定で大量の不正融資をやらかしたスルガ銀行の第三者委員会調査報告書が面白いインタビュー記録を残しています。

 「何を基にノルマの数字が決められているか分からない。ノルマの問題は、その地域における住宅着工事例や1か月の売買実績等の市況だとか、潜在的な市場がどのくらいある商品なのかといったことを全く考えず、単に数字だけ押し付けられるところ。例えれば、釣り堀に魚が10匹いないのに10匹とってこいといわれる状況。」

 方法や状況が合っていなければ目標達成はできないというとても良い例え話です。魚がいない釣り堀で魚は取れません。適当に決めた目標なんてものはなんの意味も無く、それを固守しようとすれば精神論による失敗と偽装・不正を招く以外は無いのです。