気付けば一年間以上も毎日ブログでなんだかんだと雑多なことを述べています。
まだまだ語りたいことがあるのですが、それはそれとして、どうにも過去に書いた記事と干渉することが増えてきています。「この話は過去にした気がする」と思って漁ってみると実際すでに語っていたりするわけです。
もちろんまったく同じことを同じ文言で語るわけではありませんが、過去の記事と被らないように説明の切り口を変えたり別のたとえ話を用いたりと、新規というよりも補足や追加の意味合いを持った記事が多くなってきています。
繰り返し語ることの意味
この駄ブログで繰り返し語っていることは、コミュニケーションのルールや社会集団と個人の関係性、データの読み取り方やエンジニアリングの視点、といったような類のものが多いでしょうか。他にも様々ありますが網羅するのはさすがに難しいです。
これらを繰り返し語ることによる何らかの効果を狙っているわけではなく、ただこれらについて語りたいことが多いというだけのことではあります。
とはいえ、過去の記事と被った時、それでも新しく言葉を積み重ねているのはなぜか。それにはいくつか理由を考えています。
例えば繰り返し語ることによって読んでくださった人の記憶、そして何よりも自身の記憶へ定着させることです。
エビングハウスの忘却曲線よろしく、繰り返し見聞きしたものを人の脳は記憶しやすくなっています。また異なる感覚器で情報取得した場合も同様です。
大雑把に言えば人の脳ではニューロンに情報が記憶されて、それを呼び出すためにシナプスを介して伝達されています。そのため繰り返しの記憶はシナプス経路の強化、異なる感覚器は使用するニューロンの数を増やすことに該当します。
(説明するのが大変なのでニューロンに関する関連リンク。日本学術会議ってこんなサイトも作ってるんですね、ということをむしろ紹介してみたかっただけ)
繰り返しの音読が記憶の定着に有効な理由はまさにこの点です。目で見て、耳で聞いて、発声による皮膚感覚も残る。味覚と嗅覚以外の3つの感覚器を用いて記憶処理を行うため、音読はとても効果的な学習方法です。
これと類似の手法として、異なる表現を用いて類似の事柄を説明することも効果があります。表現や説明が異なるだけで別のニューロンを用いることになるため、記憶を呼び出しやすくなるからです。
このブログでは頻繁にたとえ話を用いていますが、同じような内容の話でも必ず過去の記事で書いたたとえ話とは異なるものを考えています。バリエーションを増やすことで記憶への定着を狙っているというわけです。
それこそ仏僧の説法に種類が多いのと同じです。あれも同じような戒めや教えのものが多々ありますが、毎度同じ話をしていても退屈しますし記憶しにくいので、本質的な部分は変えず、しかし異なる表現や物語を用いて語っているということです。
・・・まあ、半分は後付けです。「同じ話を繰り返してもツマラナイ」という個人的感情の方が大きかったりします。毎日刺身じゃ飽きちゃうから、今日は焼いてみよう、明日は煮てみよう、というような気持ちなだけかもしれません。
もう一点、同じような話を繰り返している理由として、様々な切り口で語っていたほうが目に付きやすいのではないかと考えています。
立派な活動家や思想家の先生方のような「世の中の啓蒙」なんて大層なことは考えていませんが、それでも人様の目に付くところで自らの意見を述べる以上、何らかの価値提供をすることができればいいとは考えています。誰かに何かを伝えたいからこそ発信するのだから、それを伝える努力は必要だと思うからです。
個人のブログで楽しかったことや悲しかったことを語っていらっしゃる方は「それが人に伝えるよう」表現や写真を用いて伝達する努力をしていますし、面白い情報やトリビアを語っている人はやはり「それが人に伝わるよう」分かりやすい表現や図を用いています。
それらと同様、私が語りたいことを人様に語るのであれば、それが伝わる表現、理解しやすい言葉を用いるのが礼儀であろう、ということです。だからこそ繰り返し、表現を変えて、様々な言葉を用いて語っています。
どうにも理系や理論屋のような頭の堅い人種は「人に伝わること」よりも「技術的や論理的な整合性」を重視して、分かる奴にだけ伝わればいいという態度を取りがちです。私も当然そのような人種に育ってきてしまっていますので、その改善といいますか、矯正といいますか、そういった目的も含んでいます。
結言
「同じような記事を書いている時も多々ありますが何卒お目こぼしください」ということを迂遠に表現してみました。ええ、これが本当に言いたかったことです。
伝える努力が足りないなぁ。