忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

上を変えなければ下は変わりようがない

 

 現代社会における問題が明確になった際、「若者へ教育をすべきだ」とした意見を見かけることがあります。最も顕著なパターンとしては『いじめ問題』が筆頭で、それ以外にも人権関連などで若者への教育の必要性が時に語られているでしょう。

 ただ、本当に効果的な教育を望むのであれば、末端(ボトム)ではなく上層(トップ)へ教育を施すべきだと私は考えます。

 

 何事も率先垂範が必要です。

 

トップダウンとボトムアップ

 意思決定の流れにはトップダウンとボトムアップがあります。これはトップが決めるかボトムが決めるかではなく、トップが意思決定を行う際に情報がどちらの向きで流れるかの違いです。

 

 どのような社会や組織であっても末端(ボトム)が意思決定を行うことはありません。意思決定を行うために上層(トップ)が存在するのであって、意思決定を行わない上層は存在する価値が無いためです。

 よって責任と意思決定の連動が壊れていない通常の集団であれば、意思決定の権限は上層へ近づくほど強まります。

 

新規性の高い教育は誰に施すべきか

 冒頭で述べたような教育の狙いは『現状の課題を解決すること』、つまり教育によって何かしらの良い変化をもたらすことが目的です。

 しかし集団とは常に恒常性を保とうとする力が働いているものであり、何かを能動的に変える時には必ず意思決定が必要になります。新しい規範、新しい仕組み、新しいルール、そういったものは極論ですが許可制です。

 これは単純かつ現実的な話で、ルールや規則を超える新しいことを末端がやった場合、それがどれだけ素晴らしいものであってもただのルール違反となるためです。

 そうならないためにはルールを事前に変える必要があり、そしてルールを変更する権利を持っているのは先に述べた意思決定の権限からして末端ではなく上層です。

 

 要するに、新規性の高い教育によって何かしらの良い変化をもたらすことを望むならば、まず真っ先に教育すべきは末端ではなく上層です。若者ではなく大人、学校ではなく社会、下っ端ではなく経営層への教育が優先されなければ効果は見込めません。

 

 さらに単純な理屈として、そもそも教育をするためには教育を施す側が教育内容を熟知している必要があります

 学生へ人権教育をするのであれば学校の先生がまず人権を理解している必要があるようにです。このような例え話で考えれば、まずは上層から教育しなければ末端へ伝達しようがなく、さらに末端へ教育をして理解したとしても上層が理解していなければ通じないことが分かりやすいかと思います。

 

 

結言

 つまるところ、必要なのは率先垂範です。

 より良くするために何かを変えること、そして教育することは必要ですが、それを理解して実践するのは末端よりも先に上層である必要があります。

 それこそ冒頭で例として挙げた『いじめ問題』が分かりやすい話で、いくら『いじめ』をしてはいけませんと子どもに教えたとしても、そう言っている大人が『イジメ』をしているのだから、それは子どもだって大人の真似をしますし素直に従うはずもありません。

 まずは上が先に変わり、その後に下を変えていく。変革はそういった流れが必要です。