より良く生きること、やり残したことがないようにすること、最後は満足して死ぬこと。人生の途中行程や終着点に対して多くの人はそうありたいと考えていますが、これらは枝葉を切り落として突き詰めていくと後悔しない・後悔したくないことが基底にあるのではないかと考えます。後悔はそれ自体が恐怖の対象であり、人はその恐怖から逃れることを希求するものです。
そんなわけで思考実験としてそこをひっくり返してみましょう。思想観としては死後に天国へ行くという継続性を持った前向きで西洋的な視点ではなく、どちらかというと東洋的・原始仏教的な視点で考えてみます。すなわち神様の思し召しというような方向ではなく、「後悔してもいいじゃん?後悔したくないって我欲があるから辛いんじゃん?後悔したっていいやと考えれば気楽気楽、超ニュートラルでええやん」というような方向です。釈迦は多分ここまでフランクな物言いはしなかったでしょうが、まあ私の解釈です。
人は必ず後悔する
日々には様々な選択肢が現れ、人はその内の1つを選び取ることになります。夕飯のおかずや今日着る服のように小さなものもあれば、転職や結婚のように大きな転機としての選択もあります。
人は時を遡ることは出来ず、全ての分かれ道を歩むことは出来ません、自らが選び歩んだ道だけが後戻りできない自らの道となります。自らが良いと思って歩んだ道であってもその選択肢の裏には”歩まなかった道"の影が必ず残ります。これこそが後悔の種です。もしああしていたらこうなったかもしれない、なんでこの道を選んでしまったんだ、あの道を選んでいれば今よりも良かったのかもしれない、と別の道を選んでいた場合の自身を想像して人は後悔をします。
これを避ける術はありません。選択肢は常に100:0の絶対的なものばかりではありませんし、90:10で90を選んだとしても選ばなかった10が未練として残ります。選ばないという選択ですら道を歩まないという選択をしたことになります。人は選択とそれに付き纏う歩まなかった道の影から逃れることはできません。よって後悔の種は生きている限り背後に影として付き纏うのです。
後悔してもいいという考え
後悔から逃れる術が無いのであればその執着を断てば良い、と考えた場合どうなるでしょうか。
後悔の種は常にあるのが自然であり、どうしたって付き纏うものなのだからそれを消すのは無理です。無理に消そうとしても仕方がないので、後悔があっても苦しまなければいいのです。苦しくなければ後悔したって問題なく、あってないようなものです。
なぜ後悔が苦しいかと言えばそれは選ばなかった選択肢に対して未練や執着を持ってしまうせいです。よってそんな我欲を捨ててしまえば後悔があったって苦しくないよね、という考えになります。
つまるところ仏教でいう悟りの境地に達すれば後悔してもOKとなります。後悔したって気にしなければ問題無し!種があったって芽吹かせなければいいんだ!という境地です。
これは・・・思ったよりも実現難易度が高い結論になりました。実践は無理では?
己が道を誇る
悟りを開くのはちょっとレベルが高いのでもう少し現実的な落としどころを考えましょう。いいとこ探しが個人的には良いかなと考えています。
選ばなかった道が未練となるのはもう仕方がありません。そうではなく、90:10の時にもし10を選んでしまったとしても、10もいいとこがあるのだと思えば気が楽になります。ただのポジティブシンキングだと言われればそうなのですが、後悔という恐怖から逃れるには最も単純で手っ取り早い方法ではないでしょうか。
我欲を捨てるのでなく我欲を向ける方向を変えると言えばいいでしょう。選ばなかった道に執着するのではなく選んだ道に執着する、それこそが己の歩んできた道を尊び、自己を肯定することに繋がると考えます。
もちろん己が道に執着し過ぎてもまた弊害があることでしょう。なにせあまり良くない道を選んだ時に反省することができません。時には振り返って分岐点を眺め、なぜその選択をしたか、次はどうするべきかを考えることも必要です。後悔はそんな振り返りの機会をもたらしてくれる良い警鐘なのかもしれません。そう考えるとやっぱり後悔はしてもいいと言えるのかもしれませんね。
余談
自灯明(己でなんとかせい)という考えが基底にあるため、よくよく考えなくても仏教や禅って結構酷ですよね。「お前の心持次第だぞ」って言われても、つまりは自分でしか自分を救うことはできないということですので。まだ神様が助けてくれる西洋宗教のほうが優しいんじゃないかと思います。自灯明という考えは実に好みですけど。
余談2
後悔をテーマとしましたが、私個人は「しゃーない、次いこ次!」というタイプなので実のところあまり後悔をした記憶が無かったり・・・反省の少ないロクデナシな人生を歩んでいる理由が分かった気がします。