忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

我儘な自分を再発見する無意味な工程

 

 今日はブログを投稿した気になっていました。

 夜になって気付きましたが、まだ投稿してなかったです。びっくり。

 やっぱり投稿時間が朝になったり夜になったりしていると駄目です、昨日の夕ご飯どころか今日の朝ブログを更新したかどうかすら記憶を保つことのできない私のような人間がそんな器用なことをやろうとしたって上手くできるわけがありません。

 

 そんなわけで、休日ですし雑談です。

 なお、私は「そんなわけで」を万能なワードだと思い込んでいます。話題転換、閑話休題、仕切り直しに話題逸らし、全てにオールマイティで使用できる素敵な言葉です。

 でも自分で思っているニュアンスと他者への通じ方にそこそこ齟齬が生じることが日々ありますので、所詮はただの思い込みです。

 「話がよく飛ぶ」「何を言っているか分からない」と親しい友人からは評されています、付き合いが長いだけあって的確です。

 

 ちなみに毎週会社で行われている語学研修では作文の宿題があるのですが、そこでも数回に一回程度の頻度で先生から「どういう意味でしょう?」とコメントを頂戴していますので、日本語力も英語力もフワフワです。

 

なんであんなに宿題が嫌いだったのだろう

 宿題と言えば、社会人になってから宿題をそこまで敵視しなくなりました。

 学生時代は宿題のことを親の仇かと見紛わんばかりに憎んでいましたし、夏休みの宿題なんて「前半にやっておかないとしんどいもの」「後半に駆け込みでやっても間に合うもの」「九月に入ってからやっても誤魔化せるもの」に分けて、なんとかやり過ごせる課題は無いものかと模索したものです。

 今は宿題をちゃんとやります。来週分の宿題もちゃんともう終わっています。

 この差が生じる理由について少しどうでもいい自己分析をしてみましょう。

 

 私は義務感に対して非常に一貫性のない意識を持っています。

 義務に対しては比較的厳格なのですが、自らの思考を拘束する形での義務、すなわち義務を感じることが苦手です。

 社会人として業務命令に従い研修をしっかりと受けることは当たり前の行為であり大人が果たすべき義務と責任であると考えているため、研修の宿題も自然体で受け入れています。そこにやらされている感や義務感はなく、自らの意思でやっている感だけがあります。

 対して学生の頃はその課題に対して主体性を持った義務を感じておらず、それが外部から強制する形でかつ自らが考えた義務でもなかったことから、やらされている感を強く覚えており、それが非常にイヤでした。

 やらされている感、他者から強要される義務によって生じる義務感が嫌いで、自らが納得して受け入れている行為、主体的に決めて実行する感覚、自身の美学や信仰に沿っていればむしろ大変なことであろうと嬉々として行う、私はそういった人間です。

 

結言

 つまりはただワガママなだけです。

 自分の事なのでよく分かっていますが、実にその通りです。妥当な結論と相成りました。

 

 ふと思いましたが、ブログの毎日更新は事例として分かりやすい気がします。

 「毎日投稿しなければならない」と考えることは、人によっては強い義務感を覚えることでしょう。

 私は特にそういった意識はなく、自らが決めて好きでやっていることですので、拘束感を覚えることはありません。

 しかし恐らく他者から「毎日投稿しろ」と命じられたらイヤになるかと思います。

 ああ、いや、それは誰でもイヤになるとは思いますが。うーん、例えが悪い。