忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

他者の失敗やミスに不寛容な人は、怒りではなく恐怖が根底にあると思っている

 

 特に意味があるわけではない想像。

 

先日行ったチェーン店でのやり取り

店員「お会計600円となります!」

私「すみません、一万円札でお願いします」

店員「はい、10000円お預かりいたします!」

店員「9400円のお返しとなります!」

店員「申し訳ございませんが、大きいほう、全部千円札でよろしいでしょうか?」

私「はい、大丈夫です」

店員「ありがとうございます!」

店員「ご一緒にご確認お願いいたします!」

店員「1枚,2枚,3,4,5,6,7,8・・・8?」

店員「あれ、1枚足りないですね!」

私「そうですね」

 

 愛想と元気があって宜しい。

 

 こんな微笑ましい事例を導入として、ちょっと怒りの感情について考察してみましょう。

 

人の失敗に怒る人と気にしない人の差はどこ?

 人間を大雑把に分類した場合、相手の失敗やミスに対して怒りがこみ上げるタイプの人と特に気にしないタイプの人に二分できるかと思います。

 私は他者の失敗やミスに対して気にしないタイプです。失敗やミスは怒っても仕方がない類の自然事象だと考えています。

 

 ただ、まあ、世の中には他者の失敗やミスに怒る人がいらっしゃることも存じています。人によって感情の機序は異なるため、怒りがこみ上げる理由も様々あるのでしょう。冒頭のやり取りは圧倒的に微笑ましかったのであまり適例ではないのですが、こんなパターンでも怒りがこみ上げるタイプの人がいるかもしれません。

 私は怒らないタイプの人間なので怒る人の怒る理由が今一つ理解できていませんが、その怒りの一因をちょっと想像してみます。

 

 人が怒りを覚えるのは、物事が思い通りにならない時、期待を裏切られた時、理不尽に直面した時、余裕がない時などが典型的かと思います。

 ただ、それこそ大したことのないちょっとしたミス、不利益などロクにない場合でも怒る人はいますので、他者の失敗に怒りを覚えるタイプの人はこれら典型例に必ずしも該当しないように見えます。

 

 このような他者のちょっとした失敗に対する怒りの理由の一つに、俗に言う「べき思考」、自らの常識を絶対視することによる認知的不協和が怒りを生んでいるのだと私は推測します。

 自らが失敗やミスをしないように凄く神経を使っているタイプの人は、その信念が高じると「人はそうすべきである」とした常識にまで発展し、他者がその常識に従っていない場合は非常識な人間であると思い込むようになり、結果として怒りが生じる、そのような機序です。

 これを換言すると、失敗やミスを恐れている人こそ他者の失敗やミスに不寛容になって怒りがこみ上げるのではないか、そんな余計な想像です。

 他人は自らを映す鏡である、のある種実例なのではないかなと。

 

人間工学、安全工学を学ぼう

 このような怒りは人間工学や安全工学で取り扱うヒューマンファクターの概念を知っていれば生じずに済みます。

 なにせ人間とはどうあがいても絶対に必ず失敗する生き物だと熟知できるためです。

 人間は失敗することが当たり前であることを自らの内面に常識化していれば、他者の失敗やミスにも寛容になることができます。だって私も、貴方も、誰もが絶対に失敗するのですから、いちいち怒る必要なんてありません。失敗やミスはもはや自然現象と同じであり、怒るようなことではないのです。

 

結言

 まあ怒りの理由は本当に人それぞれですので、今回の推測も一因に過ぎないとは思います。ストレス発散で怒り散らすはた迷惑な人もいれば、森羅万象が思うがままにならなければ納得いかない唯我独尊な人もいることでしょう。

 いずれにせよ、怒りの理由の一つに「他者の非常識」があり、しかしそれは「自らの持っている常識が適切かどうか」を疑うことで一部解消できる事柄なのではないかと思っています。